イザヤ書55章

55章 神の思いに委ねて
おはようございます。イザヤのメッセージは、単なるバビロン捕囚からの解放の恵みを語るのみならず、明らかにキリストにある救いの恵みに及んでいます。広く時代を超えて今の私たちに直接適用できる、神の祝福への招きがあります。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.真に満たされる
 イザヤは、呼びかける。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」水、穀物、ブドウ酒、乳は、すべて霊的な罪の赦しと祝福の象徴として語られている。それらは皆ただで与えられる。というのも、主のしもべであるキリストがそれらの代価をすでに支払ったからである(53:5、12)。
豊かな時代は、ただ「お金を持ったに過ぎない子どものような大人」を作り出す。子どもの感覚で、得た金を費やすだけで、年を重ねていくことができるのだ。しかしそのような人生に満たしはない。イザヤは言う。人間の根本的な欲求は、神によって、しかも無代価で与えられる、と。神の前に出て、聞く、ただその一つの行為、つまり神とよき時を過ごすことによって、人は真に元気づけられる、と言う(3節)。確かに、イエスも語った。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37,38)人の心を真に満たすものは、キリストのいのちであり、永遠の命を約束するみことばである(ヨハネ5:24)。
2.人生の方向転換
イザヤは悔い改めを呼びかける(7節)。悔い改めは悪を前提としている。私はそんな悪を指摘されるような人間ではない、だからこんな呼びかけは関係がない、と思うかもしれない。しかし、私たちの当たり前が当たり前ではない。遊興と嗜好に耽るだけの日々に、何の正しさと善があるだろうか。人がこの世に生み出されたのは、ただ自分を楽しませる人生を生きるだけだろうか。与えられたものは任されたものであり、正しく管理すべきものである。
人は神によって造られた目的を理解し、その目的に沿って生きるものである。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なる」(8節)と語る神と、その思いを知るためによき時を過ごすことが、人間にとって決定的なことである。また、天はどれほど高いのか、と言われれば、それは測定不可能である。神の思いも測定不可能であり、知り得ぬことを心得つつ、神に従うことが大切である。
 今の自分の人生が、いばらやおどろで満ちている、と思われることがあるかもしれない。そうであるとしたら、そのような人生は、もみの木とミルトスに満ち溢れる人生と変えられる、と言う。ミルトスはてんにん科の植物であり、何かよいことめでたいとこがあると装飾に用いられるので、「祝いの木」とも言われる。だからおどろの代わりにミルトスが、というのは、死とのろいに代わっていのちと緑の祝福がということだ。神を認め、神を呼び求め、神の思いと道に生きる人の人生はそのようになる、という。