イザヤ書56章

56章 言ってはならない
おはようございます。宦官、外国人に対するメッセージです。エチオピアの宦官のエピソードが生まれたのは、このためであったのでしょう。主は万人に対する愛を注いでおられることを覚えて、主の恵みを豊かに証させていただきたいところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.宦官、外国人への神の愛
 批評的な立場の読み方からすれば、第三イザヤと呼ばれる部分に入ることになるが、このブログでは、あくまでもイザヤの預言として読んでいく。実際その方が信仰的に得るものが大きい。
そこで注目されるのは、神の懇ろな愛の告白である。ある意味で恋人を口説くかのように、熱心に神がご自身の愛について語っている。しかも、それは、「外国人」「宦官」に対する愛である。神は言う。「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。」(56節)。外国人も、宦官も、元来は、主の集会には加わってはならないとして、忌み嫌われ、排斥されていた者たちである(申命23:1)。しかし、神は、そのように思い込んでいてはいけない、むしろ実子よりもあなたは愛されている、という(4,5節)。
エチオピアの宦官がイザヤ書を熱心に読むきっかけを与えたのは、この箇所のためなのかもしれない。宦官は、その職務上、去勢された者たちで、彼らは明らかに差別され、否定された人生を生きていた。そうであればこそ、彼はピリポの聖書の解き明かしに耳を傾けた。そして、イエスこそが、自分は除かれた者、神の恵みに死せる者と諦め、落胆していた外国人や宦官を主の会衆に加えてくださるお方である、と知るに至るのである。
 彼らもまた、安息を守り、神を喜び、契約を守る(4節)、その特権に、また他の民と一緒に、祈りをささげ、献げ物をささげる特権に与れるのである(7節)。
2.主の愛を確信する
ここで取り上げられる外国人や宦官は象徴的なものだろう。というのも、私たちは皆、主の集会に加わってはならない者である。まさに神に忌み嫌われるような人生を歩んできた者である。神に対する無神経さ、忌まわしさ、浅ましさを持つ。自分の胸に静かに手を当てて、心の中を正直に覗くなら、そんな現実を思わされるはずだ。神に呪われはしても祝されることはない者である、と。しかし神は言う。「言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。「ああ、私は枯れ木だ」と。あなたは言ってはならない、あなたはそのような者ではない、と懇ろに語り迫られる神がいる。大切なのは、主を認め、主との交わりが許されていることを楽しみ、主を愛し、主に仕えることだ。目には見えないが、確かに私たちに寄り添い、私たちを愛されている方がいる。
 9節以降は、神の群れに敵対する者達、具体的には、イスラエルの指導者たちに対する叱責のことばである。彼らは善悪を区別することができず、危機にあっても警告することができない。