エゼキエル書13章

13章 指導的立場にある者の罪とさばき(13:1-24:27)

おはようございます。信徒の霊的まどろみの責任は指導者にある、エゼキエルの手厳しい言葉に耳を傾けましょう。教会では何が大事にされているのかよく考えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.預言者たちへのさばきのことば

昨日は、時のしるしを見分けることもなく、霊的なまどろみの中にある民に向かって語られる神のさばきのことばを見ました。そこで次に、その霊的なまどろみの問題はどこにあるのか、と言えば、霊的な光を与えるはずの宗教的指導者、ここでは預言者なのです。

エゼキエルは、彼らの問題をはっきりと指摘します。実に、それは勇気あることであり、厚顔にならずして語ることのできないものであったことでしょう。まず彼らは「自分の心のままに預言する者」です。エゼキエルは、神に見せられた幻をそのまま語りましたが、彼らは何も見ていないのです。そしてここが大事なところでしょう。彼らは、民に嫌われ、迫害されることを恐れて、神の審判を語ろうとしませんでした。「破れ口に上って」城壁の修復をする危険な仕事、イスラエルの家の土台となる石垣を築く、そんな地味な仕事を嫌ったのです(5節)。そしてむしろ、人の耳当たりのよいこと、喜ぶようなことを語ったのです。コロナ禍にあって、キリスト教会がもう一度立つべきところは、個人の霊的生活習慣の確立、地味なディボーションによる信仰的成熟とそれによって教会を愛する実践です。そしてそのために、心を砕き、一人一人を神との霊的交わりの習慣とその充実へと向かわせ支え続ける、霊的な指導者の存在です。そのような地味で骨折れる仕事が大事にされることです。「主のことば」などと言っているが、わたしが語っているのではない」(7節)と神に言われるような働きならば、どれだけ人を集め、人気を博し、キリスト教メディアを飾る存在になっても、それは無駄です。それは、「壁を築き、それに漆喰で上塗りをする」働きに過ぎません(11節)。神はいずれその働きを裁かれます(エレミヤ23:34)。エゼキエルは具体的にその裁きを語ります(9節)。彼らは①神の民の交わりから除外され、②捕囚帰還の名簿からも削除され(エズラ2章、ネヘミヤ7章)、そして③捕囚の地で滅び、イスラエルには帰還できない、と(エレミヤ29:31)。

2.女預言者たちへのさばきのことば

2-16節は、男性の預言者に対するさばきのことばでしたが、17節からは、女預言者に対するものです。旧約時代、イスラエルには女預言者と呼ばれる者たちがいました。モーセの姉ミリヤム(出エジプト15:20)、デボラ(士師4:4)、フルダ(2列王22:14)などです。エゼキエルは、彼の時代の女預言者たちを「民の娘」と呼びます。それは、彼女たちの活動があまりにも低俗、悪質なもので、預言者と口にするのも憚られたためでしょう。実際、それは、異教の巫女的な、まやかし的な占いであったとされています。問題は、彼女たちが、人心の不安につけこみ宗教を利得の手段としたことです(19節)。そして、彼女たちは、先の預言者たちが、神の意図に反したことをしたように、正しい人の心を悲しませ、悪者を力づけるようにしたのです(22節)。

神はこうした女預言者にも、報復を明言されます。神は①彼女たちの働きを止めさせ、②ご自分の民を、彼女たちの手から救い出されます。それによって、神が確かに生きておられることを人々は悟ることになる、と。

キリスト教会が明らかにそれとわかる異端を問題にし、騒ぐ以上に、実は、こうした微妙な偽預言者の活動に注意すべきです。教会が神のことば以外のものを求める、つまり単純に慰めと励まし、楽しみを教会活動の中心にするようになったら、注意しなくてはなりません。牧師、伝道師のみならず、教会学校教師や指導的立場に立つ信徒も、自分の働きが聖書を純粋に語り「破れ口に上り、石垣を築く」働きなのか、吟味したいところです。