エゼキエル書14章

14章 秘められた偶像を捨て去る(14:1-11)

おはようございます。見かけは偶像崇拝をしていないようでありながら、心は、神に背を向け、偶像に心を許している現実があるものでしょう。主に心を定めましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.偶像を捨てよ

イスラエルの指導者たちがエゼキエルのもとにやってきて、助言を求めようとしていました。彼らはどうやら、エゼキエルのもとに度々足を運んだようです(8:1、20:1)。捕囚はまだまだ続き、この先どうなるのであろうか、捕囚は繰り返されて、この秩序が固定化されてしまうのか。あるいは、エルサレムはいつしか滅ぼされ自分たちは国を失ってしまうのか。それともまた祖国に帰って国を再建する時が来るのか。それはちょうどだらだらと続くコロナ禍の時代のように、誰も先を読めない時代でした。

エゼキエルに尋ねる指導者に、神のことばが伝えられます。いつもは偶像に心を注ぎ、神のことばなど求めもしないあなたがたが、神のことばを求めるとはどうしたことか(4、7節)。もし、神のことばを聞きたいのなら、一切の偶像を捨て、ただ神にだけ心を向けよと(6節)。確かにそうではありませんか。普段は、聖書を本棚に終い込んで開きもせず、神の御心を求めて生きようという真面目な信仰心を持つこともなく、キリスト信仰を持ちながらも、占いや風水など様々な縁起担ぎ的な事柄にも心を許しているような人が、いざ、時代が悪くなり、生活不安が生じ、木や石で出来た偶像は当てにならないと、まことの神様を求めてまことの神様のおことばを頂きたいとやってくるのは、どんなものでしょう。けれども、神は、そこで「わたしは知らん」とは言わないのです。むしろ、悔い改めて偶像を捨てて、まことの神である主に心を定めなさい、と言うのです(6節)。さもなくば、あなたは偶像と共に亡びるだけである、と(7節)。

2.自分の救いと向き合う

実際神は、主に心を定めず悔い改めない偶像崇拝者を四つの災い、つまり飢饉、悪い獣、剣、疫病で裁くだろうとします。この時、神を真実に求める義人が巻き込まれることはありません(14節)。ノア、ダニエル、ヨブは義人の代表例です。ただし、この義人にあやかって人が恩恵を受けることもありません。義人はその信仰によって自分を救うだけです(18節)。救いも霊的な成長も個々人の責任です。牧師によるのでもなく、父や母によるのでも、伴侶によるのでもないのです。ただ、一人ひとりが神の前に自分の救いの在り様を問われ、自分の救いを達成しなくてはならないのです。また、偽預言者が惑わしたとしても、それは偽預言者の問題ではなく、それに惑わされたその人自身の問題です。

第三版では「悔い改めよ(6節)」でした。しかし、ヘブル語の原語では後悔する、申し訳なく思うということばではなくて、立ち返る、向きを変える、という意味のことばが使われています。2017の訳でも「立ち返れ」となっています。ただ、彼らはバビロンに捕虜となって連れ去られた人々、具体的に偶像を拝んでいたわけではなく、心の中に相変わらず神以外のものを第一としていた人々でした。そこで、見かけは神を求めているようであっても、心は求めていない現実を認めて、そこから立ち返ることが勧められているのです。

こうして神の裁きがなされる時に、私たちは、神が正しいことをなさるお方であり、神はむげに人を滅ぼされるお方ではなく、ご自身の義によって裁かれることを知るわけです。ですから、神の前に正しく歩んでいるならば、神の裁きに慰めを見出すことにもなります(22節)。私たちが神の前にどうあるか、人の前でも教会においてでもなく、ただ一人神の前に心探られた時に、私たちがどうあるのか、が問われています。そして、たとえ人からどう見られようとも、神の前に真実な生き方をする者は、その義のゆえに自らを救うことになります。神は正しいお方であると信頼して歩ませていただきましょう。