エゼキエル書19章

19章 君主たちのための哀歌

おはようございます。19章で印象的なのは、滅ぼされた諸国が野獣に、これを滅ぼしたバビロンが人間に例えられているところでしょう。深い悔い改めを得たいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.野獣と化した人々

これまでずっと散文形式でつづられてきた預言書ですが、この箇所だけは詩文形式となり、独立した哀歌となっています。エルサレムの滅亡について、二つのたとえによって悲しみが綴られています。解釈のポイントは、それぞれ何をたとえているのかを理解することでしょう。

第一のたとえ(19:1-14)の「雌獅子」はユダ南王国、「子獅子」は王たちのことで、第一の子獅子はBC609年に3か月間王であったエホアハズ(2列王23:30b-34)、第二の子獅子はその後の王様でしょう。また、「雄獅子」は、ユダの国を囲む近隣諸国の諸王たちを言うのでしょう。

エホアハズは、23歳で王位につき、3ヶ月王権を思うままにしました。それはまさに「獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼす」ような統治でした(3節)。そのように主の目の前に悪を行った(2列王23:32)彼は、エジプトの王ファラオ・ネコによって捕らえられ、BC608年エジプトに移されました(2列王23:31-25)(4節)。そこでユダ南王国は、次の王を立てたと言います。しかし、それを誰と理解するかが微妙なところです。実際の所、その後に起った王様は、エホアハズの兄弟エルヤキム(エホヤキム)(2歴代36:6)、その子エホヤキン(2列王24:8-16)、そしてその兄弟のゼデキヤ(2列王25:6-7)ですが、皆バビロンに連行されています。ただ詩文形式でイメージが揃えられているとしたら、同じようにBC598年末から3か月王位についたエホヤキンと考えるのがよいのでしょう(2列王24:8-17)。印象的なのは、パレスチナの諸王が野獣に例えられており、これらを攻め上った者たちが人間に例えられているところです。神の目から見れば、彼らのやることなすこと、人間以下の野蛮なもので、滅ぼされるのもやむなしというわけです。確かに人間の罪と堕落の状況は、そのようなものでしょう。もはやこれが創造の冠である人間社会と見なすには、苦しいものがあったのです。

2.南王国の終焉

第二のたとえ(19:10-14)は、ユダ南王国最後の王の運命を語っています「水のほとりに植えられたぶどうの木」は、明らかにユダ南王国のこと、その「強い枝」は、ゼデキヤのことです。1-9節が過去の王たち、こちらは今の王について、しかもその行く末について哀歌の形で述べています。「東風」(12節)は、主に5月と10月に砂漠から吹いて来て植物を枯らす熱風で、神のさばきによくたとえられます(イザヤ27:8、エレミヤ4:11-12)。ここでは、それが吹いて来る方角「荒野と砂漠」(13節)によってバビロンが象徴されています。そこで12節はネブカドネツァルによる攻撃を、13節はバビロン捕囚を意味しています。ゼデキヤがバビロンに反逆したため、ゼデキヤの子は皆殺され(2列王25:7)、まさに「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには、王の杖となる強い枝がなくなった」(14節)という状況が生じています。つまりイスラエルの国の歴史は終わってしまったのであり、だからここで「悲しみの歌、哀歌」(14節)が詠われるわけです。ただ、人間以下になり下がったイスラエルは、神に完全に捨てられたわけではありません。神の契約と愛は変わらず、バビロンに捕らえ移されたエホヤキン(マタイ1:11ではエコニヤ)によって、イスラエルの歴史は続き、やがてエルサレムが再建されるのです。人はしばしば神の裁きを嘆きますが、その裁かれる自らの現実を悟ることができないでいます。人間以下に成り下がっている自分への深い悔い改めが回復の一歩なのです。