ホセア書9章

9章 イスラエルに対する裁きの宣告

おはようございます。ホセアは、イスラエルへの裁きを語ります。神を認めず、神に聞き従わない、そこに私たちの罪の本質があり、私たちはいつもその誘惑にさらされています。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.イスラエルへの裁き

これまでホセアはイスラエルの罪を、具体的に語ってきました(7、8章)。9章に入り、ホセアは「イスラエルよ」と国全体に呼び掛け、神の裁きのことばを語り伝えます。おそらく秋の仮庵の祭の時だったのでしょう。いつものごとく行われていた祭りを、「喜ぶな」「楽しむな」(1節)、それはあなた方の期待するものとはならない、と語ります(2節)。イスラエルの人々は、カナンの土着の宗教である豊穣の神、バアル礼拝に傾倒し、それが今の自分たちの幸せを保障している、と考えるところがありました。しかし、それは偽りであり、まことの神を認めないならば、凶作となり、外国の侵略によって収穫は踏みにじられる、と言うのです。確かに、天地を創造し、この時代と歴史を支配する神に背を向け、そこに祝福を期待することなど、できるものではありません。

また、捕囚の苦難です(3節)。彼らは、捕囚の地で、「汚れた物」を食べることになるのです(3節)。つまり自分たちが忌み嫌うものを食べなくてはならない、ということでしょう。さらに、礼拝が取り去られる、と。もはや供え物のパンを神殿に持ち運ぶこともなく、パンはただ、食べるためだけのものとなるのです(5節)。礼拝が失われる裁き、コロナ禍において、私自身は初めて意識したことですが、実にこれもまた厳しい裁きです。そしてイスラエルはエジプトの有名な埋葬地の一つ、メンフィスのようになる、と言うのです。

2.バアル・ペオルとギルガル

7節の「来た」は完了形です。将来確実にその日が来ることを語っています。警告に耳を貸さなかったイスラエルにアッシリヤ捕囚が迫っていました。

10節以降、バアル・ペオルとギルガル、二つの地名を巡る問答(10-14節、15-17節)が、イスラエルの背信と裁きの本質を物語っています。神は、イスラエルに期待を寄せていました。「荒野のぶどうのように」「いちじくの木の初なりの実のように」見ていた、と言います。しかし、彼らは神のそのような期待に応えるどころか、ベオル山を本拠地とするバアルに出会った時に、その異教的なバアル崇拝に傾倒してしまったのです(10節)。ホセアは、彼らがささげた豊穣の祈願に代わる「死産の胎」「涸れた乳房」の祈りをささげます。まるで人の不幸を祈願するような祈りは、理解しにくいものですが、反意的な祈りと言うべきでしょう。また、すべての悪はギルガルにあったとします。ギルガルは、あらゆる意味においてイスラエルの出発点でした。ヨルダン川渡河後、カナン征服の軍事的拠点となり、12の記念の石が立てられ、新しい世代に割礼が施されました。しかし、そこは同時に、神のいいつけを待つことのできなかった最初の王サウルが退けられた地です。今イスラエルも、神への不従順の故に、退けられることを宣告されるのです(17節)。神の期待にしっかり応えて、単にご利益的なものではない、真の魂の祝福に与る者でありましょう。