アモス書3章

3章 契約の民への告発

おはようございます。富を手に人を人と思わぬ振る舞いをしてしまう弱さが人にはあるものです。人は神の正しさに生きる者として造られたことを思い起こしたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.主が語られる

イスラエルに対する裁きの宣告です。神は、彼らを選び出した民であると言います。もちろん、その選びは、選りすぐりのものを選んだというのではなく、存在価値を否定され、エジプトで息絶えようとしていた奴隷のイスラエルを救い出したということに過ぎないものでした。彼らは神のあわれみの目に留まり、神の愛顧を受け、神と契約を結んだ民なのです。神の特別な恩義を受けたのですから、その恩義に応える当然に責任があったと言うべきでしょう。彼らは神の裁きを避けることができない者たちだったのです。

そこで3節以降、矢継ぎ早に7つの質問が投げかけられます。もし一緒に歩いているとしたら、それは事前に約束があったからではないか(3節)。獅子がほえるとしたら、獲物がみつかったからではないか(4節)。鳥網が作動したとしたら、それは、鳥が罠にかかったからではないか(5節)。町で角笛が吹かれたら、それは一大事件が起こったからではないか。町のわざわいは、神以外に誰がもたらすだろうか(6節)。これら一連の問いかけは、皆その必然的結果を確認させようとしています。そして7節、預言者の語ることは、主のことばによるものではないか、と結論づけるわけです。

2.イスラエルの裁き

9節以降は、BC724年シャルマネセルによる北イスラエル侵略の預言です。七十人訳は、アシュドデをアッシリヤに読み替えていますが、そのようにしなくても、アッシリヤの侵略は全体的に暗示されている、と言ってよいでしょう。サマリヤは三年包囲されてついに陥落し、宮殿はかすめ奪われ(11節)、イスラエルは捕囚とされました。イスラエルの羊飼いは、野獣に羊が襲われることがあったなら、所有者にその弁明をするために、証拠としてその羊の足の骨、あるいは耳たぶの残骸を持参する習慣がありました(12節)。同様に、イスラエルも、本体はめちゃめちゃにされ、家具の一部といった残骸が確認される事態に至ると言います。しかしそれは、2章で述べられたように、神のなさること、神の報復でした。イスラエルの勇士も騎兵も全く無力とされて、負け戦となるのです(2:13-16)。

こうして北イスラエル創設後、ヤラベアム1世によって建てられたベテルの祭壇も、(14節)、別荘として建てられた冬の家も、贅の粋をつくした象牙の家々も、みな失われる、と言います。実に具体的な預言です。

彼らの問題は、社会的正義を踏みにじっていたことでした(2:6-8)。イスラエルの豊かさは、弱い者を虐げ、貧しい者を抑圧する上で成り立っていたのです。だからこそそれは打ち砕かれなくてはなりませんでした。神は正しいことをなさるお方です。そして、この神にあわれみをもって救い出されたクリスチャンは、神の正義に生きる者、身をもってそれを証しする者です。正義は虚偽なき、矛盾なき生活に表されるのです。