マタイの福音書22章

マタイの福音書22章 神の招きに応答する

おはようございます。パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら聞いてください。今日はマタイの福音書22章からです。

1.結婚の披露宴への招き(22:1-14)

イエスが語られた結婚の披露宴のたとえは、基本的に21章で語られた二つのぶどう園のたとえの続きで、再度決意を促すものです。というのも、人生にチャンスは色々あるけれども、神の国を得るチャンスを逃してはならないと語られたところで、多くの人は、このたとえに語られているように、気にもかけないことが多いからです。適当に聞き流して仕事に出かける者、あるいは耳を塞ぐ者と反応は様々です。そこでたとえでは、聞き流す人がいてもかまわない、むしろ、耳を傾ける人を集めなさい、とされます。そうしてたくさんの人が集められるのですが、中には、語られていることを良く理解せずに、神の国の祝宴に紛れ込もうとする人もいるわけです。それが12節、婚礼の礼服を着ないでやって来た人です。

以前、なぜキリスト教を信じたのか、という質問に、こう答えたお年寄りの方がいました。あの世には何一つ持っていくことができない。財産も名誉も、この体も。丸裸で、しかも手ぶらで神の前に立つなんて恐ろしいことだ。しかし、キリストの十字架の赦し、つまりキリストの正しさを身に受けて神の前に出られるなんて、なんとも幸いな教えではないか、だから信じた、と。自分の正しさで十分天国に行ける、キリストなどいらないと考えている人は、まさにこの婚礼の礼服を着ないで、神の設けた披露宴にやって来る人なのです。

2.キリストを受け入れない人々(22:15-46)

さてイエスのこれらの言葉に反応して、ユダヤの宗教家はイエスを言葉の罠にかけて葬り去ろうと画策しました。まさに彼らこそイエスを受け入れない人、礼服を着ようとせずに神の前に出ようとする人たちですね。まず彼らは17節、ローマの課税をどう考えるかという難題を吹っ掛けました。当時、イスラエルは支配国のローマに税金を治めていました。しかも、皇帝の肖像と皇帝を「神の子」と呼ぶ刻印のあったローマのお金でこれを支払うのです。ユダヤ人にとっては忌み嫌うべきお金でした。ですから、このような課税を肯定する発言は、イスラエルの愛国心を刺激し、イエスへの反感を引き起こしたことでしょう。しかし、イエスは、支払うのだったら、ユダヤ人のお金ではなく、ローマのお金で、つまりローマのものはローマに返せばよいと答えるのです。あまりにも当然のことですね。

続く23-33節の復活についてのエピソード、簡単に言えば、あの世はこの世の感覚を超えた世界のお話であるから、あの世のことはあの世で考えればよい、ということでしょう。

また36節、人が守るべき戒めとして何が最も重要かと言う質問、それには神と人を愛する、それがすべてだと答えます。目に見えないものを大事にする心があればこそ、奥ゆかしい振る舞いのある人にもなるのです。最後に43節、イエスは、旧約聖書を引用しながら、イエスが古代イスラエルの王ダビデの子孫であるのに、ダビデに優る存在であることを主張します。明らかに聖書を学んでいた当時の宗教家に、イエスをこの地上の権威にまさる神の権威を持った存在であるかを認めるか否かを迫る発言でした。しかしマタイは、読者にも同じ問いかけを投げかけているのです。では今日もよき一日となるように祈ります。