マタイの福音書6章

マタイの福音書6章 パリサイ人に優る義

おはようございます。パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら(聞いて)読んでください。今日はマタイの福音書6章からです。

1.パリサイ人に優る宗教的行為

昨日もお話しましたが、先の5章は、律法学者に優る義、この6章はパリサイ人に優る義がテーマです。パリサイ人は、一般に熱心な信徒集団ですから、その実際的な面、施し(2-4節)、祈り(5-15節)、断食(16-18節)が取り上げられています。

まず施しについてですが、施しは自然な、慎み深い行為であることが大切です。基本的にキリスト者は光なのですから(5:14)、隠そうと思っても隠すことができないものを持っています。ことさら自己喧伝をせず、自然に生きていても、その人のよい性質は誰の目にも明らかというべきでしょう。人前で敬虔そうに装う信仰者というのは、イエスの弟子ではなく、パリサイ人の子です。

次に祈り、これも、他人の目や耳を気にしてなされるようなものではありません。ただ神にささげられるものです。当時のユダヤ人は、通常朝9時、昼0時、夕方3時にエルサレムの神殿に向かって祈る習慣がありました。イエスは、その時刻になると人前に出てきて、さも敬虔そうに祈る人々の姿を指し、「そうではなくて」、と言うのです。祈りは、神になされるものだから、人のいないところでしなさい、と。そしてだらだら、長く祈るのも止めなさいと、9節、具体的な祈りの例を挙げます。一般に主の祈りと呼ばれて親しまれているものですが、大事な点は、三つあります。一つは、神を「父よ」と呼ぶ、つまりイエスは、ご自分と父との深い関係の中に、私たちが入ることを許されているのです。だから、祈りの第一に神を讃え崇めること、その上で、人は自らの心身の必要を祈るべきことです。

最期に断食ですが、当時のユダヤ人は、年に一度贖罪日の断食の他、四月、五月、十月の断食等を定め、さらにパリサイ人は毎週、月曜日と木曜日の断食を加えて実践していました。しかしいかにも私はそれらを忠実にやっていますというのは止めなさい、と言います。やはり信仰は、神との隠れた関係が本質なのです。それは、神がご存知です、という部分にいかに生きるかの問題です。

2.パリサイ人に優る日常行為

後半19節からは、日常性に目が向けられていますね。律法学者やパリサイ人は、施しや祈り、断食といった宗教的な行為を重んじ、それがすべてでした。しかし信仰というのは、宗教的な儀式を守る以上のことです。ですから信仰を生活に結び付けて生きようとするなら、当然パリサイ人に優る生き方となります。人の日常を見ていれば、その人が何を宝として生きているのかがわかります。同じ教会に通っていても、地上の富を宝として生きている人と、永遠の神を宝として生きている人では、その生活に差があります。モノに対する態度、モノの使い方、活かし方が違うのです。まさに21節「宝のあるところ、そこに心もある」ということなのです。神の国と神の義をまず求めよ、とイエスは言います。神の国は神の支配のこと、つまり神あっての自分、そこからすべてを考えて行動せよ、ということです。必要なものはすべて神が備えてくださいます。では今日もよき一日となるように祈ります。