マタイの福音書7章

マタイの福音書7章 キリスト者のいのちある本物の義

おはようございます。パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら(聞いて)読んでください。今日はマタイの福音書7章からです。

1.さばいてはならない

目の中のちりを取り除こうとする人がいます。しかしその目には梁が刺さっている、おいおい、他人の目の前にまず自分の目を何とかしたら、ということでしょう。1節「さばいてはいけません」他人を簡単に批判しないことです。自分自身にも同じ問題、いやそれ以上の問題があるかもしれません。そんな人間の弱さを、まず心得ておかなくてはなりません。その上で必要なことは、相手の理解力、受容力を弁えながら語るべきです。そうでなければ、「豚に真珠」(6節)わかってもらえないばかりか、逆切れされる結果になりかねません。

2.求めなさい

7節「求めなさい。そうすれば与えられます」神に何でもお願いしなさい、と言っているのではありません。文脈的には、6節から続いていて、神のことばを語る難しさに直面している人に語られているものです。つまり、神のことばの価値がわからない人に語っても無駄だとすれば、人に神の救いを語りようがないではないか、どうしたよいのか、ということへの答えです。頑なに神のことばを拒む人がいても、心配しないで祈りなさい、ということです。確かに神は、死の門も打ち破る力のある方です。人の頑なな心を開かせるなど、朝飯前でしょう。魂の救いのために、祈り続ける、そうして初めて人の業ではなく神の業として宣教が進むのです。人は、祈り、愛情をもった関りを続けることです。それが12節、「人からしてもらいたいことは何でもあなた方も同じように人にしなさい」という愛の教え、つまり黄金律も思想的につながっています。「律法と預言者」は旧約聖書の代名詞です。つまり黄金律こそ、旧約聖書の中心的な教えである、ということでしょう。

3.神のことばを実践する

13節からは一連のことばの対比があります。「いのちに至る門」と「滅びに至る門」(13-14節)、「良い木」と「悪い木」(15-20節)、「主よ、主よと言うだけの者」と「父のみこころを行う者」(21-23節)、「岩の上に建てられた家」と「砂の上に建てられた家」(24-27節)。いずれも偽物と本物を対比しています。つまり、キリストの弟子にとって重要なのは、まがい物にならず、本物になることです。律法学者やパリサイ人の生き方は、体裁を繕うだけのまがい物です。本物の生き方はまず13節「狭い門から入」ります。確かに愛情をもって関わり続ける、いわゆる黄金律の実践は、簡単なものではないでしょう。しかし、安易な人生に神の奇蹟もありえません。また15節「偽預言者たちに用心しなさい」愛のない人を食い物にするような教師は、愛を教える律法を否定する人です。本物の生き方をする人は倣うべき本物とそうでない偽物を見分けます。見分けるポイントはどんな生活の実を結んでいるかです。さらに24節「岩の上に自分の家を建てなさい」本物の生き方をする人は、神のことばによく耳を傾け、それをもってしっかり自分の人生を築き上げます。そうすればどんな嵐がやってきてもびくともしない人生を歩むことにもなります。キリスト者として生きるのなら、本物を目指しましょう。では今日もよき一日であるように祈ります。