マタイの福音書11章

マタイの福音書11章 イエスとヨハネの連続性

おはようございます。2021年1月20日、パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら読んでください。今日はマタイの福音書11章からです。

1.バプテスマのヨハネの反応(1-15節)

すべての権威が与えられたイエス、そのイエスからの宣教の命令、とマタイの筆は進み、11章からは、そのイエスに対する人々の様々な反応が綴られていきます。それは、大まかに16:13-20のペテロの信仰告白に至るまで続いています。

まず11章の前半で、バプテスマのヨハネの反応が記録されます。この時彼は、死海の東側にあったマケルスの牢獄に閉じ込められていました。国主ヘロデ・アンティパスの結婚や様々な悪事をあからさまに批判したためでした。その彼が、自分の弟子をイエスのもとに遣わしています。3節は、素直に読むと、ヨハネがイエスの正体を疑い、確認しているかのように受け止められることばです。しかしそうではないのでしょう。彼こそ、イエスを神に遣わされた救い主であると人々に紹介した人です。そしてバプテスマを授ける中で、天からの声を聞いて、イエスが約束のメシヤであることを確認しています。となるとこの一節は、疑問文ではなく反語的な肯定文として読むものなのでしょう。ヨハネは、牢獄の中にあって、あなたこそ待つべきお方、とイエスの働きを認め祝福する思いを、弟子たちに託したのです。

イエスはそのヨハネの思いを汲んで、エールを返しました。イエスは、ヨハネの働きを評価し、ヨハネを偉大な預言者として認めています。まさにヨハネは、マラキ書3:1で預言された、あのきたるべきエリヤだ、と言うのです(14節)。神の救いのご計画の中では、実に重要な役割を果たした預言者というわけです(11節)。

2.群衆の反応(16-29)

こうしてイエスとヨハネは、神の救いの計画のために一体となって働いたわけで、続く16節からはそのイエスとヨハネに対する人々の反応が語られます。コラジン、ベツサイダ、カペナウムは、当時、非常に豊かな町で、立派な会堂がありました。しかし、その町の人々は、広場に座っている、天邪鬼な子どものように、イエスやヨハネのことばを真面目に聞こうとはなかったのです。神の裁きがあることが語られていますね。ただ25節、そのような中でも、イエスの存在を正しく理解し、受け入れる者たちもいました。それは「知恵ある者や賢い者」ではなく、「幼子」たちです。つまり学のある宗教的な指導者ではなく、無学な普通の人々でした。27節、イエスは再び断言します「すべてのことが、私の父からわたしに渡されています」細かいことですが、当時のユダヤ人は、天の父を、私たちの父とは表現しても、私の父と言うことはありませんでした。イエスはご自分の権威を主張しながら、しかも神と自分が一体であることを示しているのです。その権威にどう応答するか。28-30節の招きのことばは、旧約外典ベン・シラ(51:23-27、6:24-31)からの借用であると言われます。つまり、イエスは、当時よく親しまれていた書物の一フレーズを使って、自分の使命を説明されたのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます」イエスは偉大な権威あるお方、しかしその権威は、私たちのたましいを休ませるためのものなのです。では今日もよき一日となりますように祈ります。