マタイの福音書23章

マタイの福音書23章 パリサイ人に倣うな

おはようございます。パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら聞いてください。今日はマタイの福音書23章からです。

1.律法学者の問題点(23:1-12)

イエスは、すでに21-22章において、律法学者やパリサイ人たちと対決姿勢を示していましたが、ここ23章では、あからさまに彼らの問題点を指摘しています。12節までは、弟子たちに向けられて語られており、彼らの宗教実践は、反面教師として取り上げられています。イエスは言います。3節「彼らが言うことは、すべて実行し守りなさい。しかし、行いをまねてはいけません」彼らの言うことは正しいが、彼らは口で言うほどにはそのように物事を行っていない、と言うわけです。これは、今日のキリスト者も気を付けなければならないことなのでしょう。聖書を語るほどには、その生活は聖書的ではない、というものです。結果、自分が行いもしないことを人に要求するわけです。そして、さも聖書に従っているかのように、人に見せる信仰に熱中するわけです。だから「家族は知っている」あの人口で言うほどには、そうじゃないんだけど、ということがあるのではないでしょうか。

結局彼らは、自己中心でちやほやされたい人生を送っているだけです。上座や上席を好んだり、あいさつされたり、先生と呼ばれることが好きというのはそいうことでしょう。

2.わざわいなるかな(23:13-39)

13節からは、直接「律法学者とパリサイ人たち」に向けて語られ、文体も変化し、連続して「わざわいだ」で始まる七つの非難となっています。言いたいことは、彼らが律法の教師でありながら、いかにその役目を果たしていないかでしょう。彼らは、ただ個人的な信仰生活に失敗していた、というのではなく、イスラエルの指導者として全く霊的なリーダーシップを取りえていない、ということなのです。ですからイエスのことばも激しいわけです。先にイエスは、山上の説教において「幸いな者」がどのような者であるかを語りましたが(5:3-12)、ここでは「わざわいなる者」がどのような者であるかを語っています。まず、22章で既にお話したことですが、彼らは、イエスの十字架にある罪の赦しという礼服を着ず、御国に入らない者、そして彼らに従う者をも同じように入らせない者です。そして自分の弟子を作っては道連れにします。また、16節目の見えない案内人、つまり全くずれた聖書解釈をする人々、さらに、23節「正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」とは形ばかりで心のない信仰だということです。また25節、表向きは立派でも、彼らの心は妬み、怒り、嘲りとぐちゃぐちゃです。そして26節「預言者たちの墓を建て」というのは、実際には、預言者を拒絶し、迫害し、打ち殺したことですが、まさに神のことばに耳を傾けようとしない、今風に言えば、聖書そのものを謙虚に注意深く読まないということでしょう。イエスはそのような事態はわざわいなのだ、と言います。36節以降は、AD70年のローマ帝国によるエルサレム占領の出来事について語っています。しかしここは、同時に24章に続く終末預言、つまり、私たちの時代に対する警告のことばともされるところです。

信仰は、目に見えない部分が大事にされる営みです。心に留める神のことばがその人の生活を形作ることを目指す修練なのです。では今日もよき一日となりますように祈ります。