マタイの福音書24章

マタイの福音書24章 世の終わりの時
おはようございます。2021年2月2日、東京は久しぶりに雨が降っていますね。パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら聞いてください。今日はマタイの福音書24章からです。
1.イエスの終末預言(24:1-21)
24、25章は、第五の説教集、つまりイエスの終末預言がまとめられています。内容的には、23:37から続いているようですが、実際の聴衆は異なり、親しい弟子たちのみに語られたものです。歴史家のヨセフォスは、この箇所がAD70年のローマ帝国によるエルサレム攻撃を預言したとします。実際、教会史家のエウセビオスも、AD70年、キリスト教徒が、この箇所を覚えていて、エルサレムがローマ帝国に攻撃される前に立ち去って、難を逃れたことを語っています。ただし、3節、「あなたが来られ、世が終わる時のしるし」とあるように、AD70年のエルサレム破壊のみならず、後の時代の人々にも関わる世界の終末についての預言としても考えられている箇所なのです。となるとなんとなく聞き流せない内容があるように思われてきますね。
そこでマタイが語っていることは、終末には前兆的な事柄があることです。つまり救い主の名を名のる偽キリストが現れる(5節)、戦争・内乱、政情不安(6-7節)、自然災害(7節)、迫害(9節)、宗教的な惑わし(11節)、社会的な不正がある、人々も冷酷になる(12節)、全世界へのキリスト教の宣教も終わる、そのような事態の後に、35節「この天地は滅び去ります」と言います。考えてみれば、現代はこのような宗教的な預言とは関係なく、環境問題、エネルギー問題が深刻で、いずれ人間は地球を脱出せねばならぬようなことを考える時代です。読んでいると何となく終末が近づいているようで、心穏やかならざる気持ちになりますね。しかし大切なのは、この世に対する神の主権を読み取ることです。つまり、この天地は神によって創造され、始まったのですから、その終わりも神が定められることです。人間の愚かさやキリスト教徒の宣教の熱心さによって終末がどうのこうの、というのではありません。人類の歴史を支配し、これを始め終わらせる神を覚えることが重要なのです。
2.終末の時(24:23-51)
ただ、やはりその時はいつなのかと気になる人も多いでしょう。時代が悪くなると何年何月に世の終わりが来るようなお話が、巷に溢れがちです。そこでキリスト教は、いや聖書は何と言っているのか。30節、「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。」終末には何か劇画的なことが起こるのか、と思わされるところですが、マタイが言おうとしていることは、イエスの語ったことを皆が正しいと認める事態が生じるというだけのことです。そして、36節、その日は、誰も知らない、ただ神のみ知る時だから、目をさました生き方をしなさいと言います。具体的に45節「食事時にきちんと食事を与える」という当たり前のことをきちんとすることです。世の終わりが来るからといって、特別な生き方をせよ、というのではなく、普段すべき常識的なことをしっかりすることを勧めているのです。信仰を持って生きることは神がかり的な人生を生きることではないのです。やがて人は皆、神の下に帰るのですから、終末など恐れるものではありません。むしろ大切なのはわからないことは神に委ねて、今日の一日をしっかり生きることです。では今日もよい一日であるように祈ります。