マタイの福音書25章

マタイの福音書25章 世の終わりに備えられた生活
おはようございます。パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら聞いてください。今日はマタイの福音書25章からです。
1.花婿を迎える十人の娘(25:1-13)
終末と神の国を巡るたとえ話が続きます。花婿を迎える十人の娘のたとえ、タラントのたとえ、そして羊と山羊のたとえ、と大きく三つあります。順に見てまいりましょう。
まず花婿を迎える十人の娘のたとえ。五人は賢く、五人は愚かな娘であったと言います。その差は、備える心を持っているかどうかにありました。24章の終わりに書かれていた、主人に仕事を任されたしもべのたとえでは、しもべは主人の帰りは遅いだろうと思って油断していました。こちらは、油断していたわけではなく、迎える体制にいながら備えるべきものを備えていかった結果、対応できなかった例です。世の終わり?そういうこともいつかあるかもしれませんね、という高を括った態度も、世の終わり?それは大変だ、信じなくちゃと信じはしても、それなりの信仰生活を送らなければ、同じですよ、というわけです。使徒パウロは言いました。「夜は深まり、昼は近付いて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けようではありませんか(ローマ13:12)。神様にお会いする日は近付いているのですから、信仰生活をするなら、しっかりしたいものです。
2.タラントのたとえ(25:14-30)
そこでどのような生き方をすべきなのか、次のタラントと山羊の二つのたとえがそれを教えてくれます。タラントのたとえは、ルカに出てくるミナのたとえと似ていますが異なるものです。タラントのたとえでは、しもべの能力に応じて、預けられるものは五タラント、二タラント、一タラントと差がありました。ミナのたとえでは、いずれも預けられたものは一ミナ、同じです。つまり人間は神に平等に与えられているものと、そうではないものがあるのですが、それらをちゃんと生かして生きなさいというたとえです。万人に平等に与えられている物は何か、それはルカ書のミナのたとえで学びます。ここでは、才能や能力、といった個人差のあるもの、個々其々に与えられているもの、それを神と人のためにしっかり活かしなさいということを教えられます。頭のよさも、財力も人それぞれです。しかしそれらはみな神に与えられている、そういう意識がないと、私たちはただそれらで自分を楽しませる、あるいはそれらで自分を誇ることに熱中してしまいがちです。たった一度の人生において与えられたものは、あなただけのものではなく、あなたが生きている時代のためのものでもあることを覚えたいものです。
3.羊と山羊のたとえ(25:31-46)
さて、私は神にそんな大きな責任は任されていないと、自分を小さく考えておられる方もいるでしょう。しかし羊と山羊のたとえに教えられましょう。人に関心を向けること、気遣いすること、声がけすること、それは些細なことかもしれませんが、実は、人を大きく力づけることがあるものです。世のため人のためという大上段に構えた人生ではなく、人間として当たり前の気遣いや優しさを日々の生活の中で自然に示していく、実はそれが神にお会いする日に備える生き方だと言うのです。では、今日もよき一日となるように祈ります。