マルコの福音書2章

マルコの福音書2章 衝突の始まり
1.中風の人の癒し(2:1-12)
イエスはナザレからガリラヤへ引っ越しをし、(ルカ4:31)、そこで本格的に宣教を開始されました。するとイエスに対する注目度も高まり、宗教家たちとの衝突も深まっていくのです。2章には、それらの事件がまとめて記録されています。
まず3節、イエスは中風の人の罪を赦しました(1-12節)。中風、今風に言えば脳卒中、あるいは脳梗塞で後遺症を負った、障害者のことです。四人の友に連れて来られたこの人は、イエスによって罪赦されるのです。宗教家たちがイエスのことばにひっかかりました。確かに罪の赦しは、被害者か、あるいは、これを裁かれる神以外に誰ができるものでしょう。あなたは神なのか、と言うわけです。すると、イエスは、口先で罪の赦しを語ることは容易いことだ、ならば、本当にご自分が神であることを示すために、この男を癒して見せようと癒されるわけです。通常病気は火事、障がいは火事の焼け跡に例えられます。つまり病気は治ることがあっても障がいは治らないものでしょう。しかしイエスはそのことをなさったのです。そしてご自身が神であることをお示しになりました。
2.レビの召命(2:13-22)
続いて、アルパヨの子レビ、つまりマタイがイエスの弟子として召されたエピソードが記されます。マタイは、通行税を徴収する税関の仕事をしていました。この時マタイはぼんやりと座っていたのかもしれません。そんなマタイの心に、イエスは「わたしについて来なさい」と語り掛けます。通常収税人は、罪人と同様、距離を取るべき汚らわしい存在と見なされていましたから、まして、マタイの家で食事をするなど、当時の宗教家たちには考えられないことでした。しかし、この出来事は、マタイにとっては深い感動を与え、人生の転機をもたらすものとなったのです。それは、マタイだけが記録するイエスのことば「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)に良く表れています。マタイは理不尽な敵意を向けられる人生に疲れていたのでしょう。あるいは、ローマの手先となって、ごまかしを重ねる仕事にも嫌気がさしていたのかもしれません。もし人生において重荷を負うべきならば、疲れ果て、潰れてしまうような理不尽な重荷ではなく、信念をもってやり遂げるべき、使命感のある重荷を負うべきなのです。「私について来なさい」マタイは、イエスの使命に立つ決心をしました。確かにイエスは、当時の社会に新しい風を起こしていました。22節「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」新しい思想に立つならば、新しい行動様式、そして組織や社会が必要なのです。
3.安息日も主(12:23-28)
最後に、安息日の出来事。旧約時代と1世紀のイエスの時代では、旧約聖書以外にも彼らの思考や生活を規制する戒めが出来あがっていました。イエスは、別の箇所でそれらを「先祖の言い伝え」と呼び、批判しています。ここでも旧約聖書を第一とし、そこに定められた安息日の本質を解き明かされます。安息日は人の為に設けられた、安息は楽しむものです。そして神はその安息を楽しむ人を祝されるのです。神の祝福を受ける安息日を聖別し、大切にしたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。