マルコの福音書3章

マルコの福音書3章 聖書マインドに生きる
1.安息日を巡る衝突(3:1-12)
昨日お話した2章後半の安息日を巡る衝突について、もう少し補足しておきます。マタイも12章(3-4、7-8)で同じ衝突を取り上げていますが、それと読み比べるとマルコの書き方は実に簡単です。おそらくイエスが語ったオリジナルの教えは、マタイのもので、ローマ人を意識してこの福音書を書いたマルコは、ローマ人にはあまり興味のない部分を省略したのだ、と考えられているのです。ともあれ、ダビデ王がイスラエルで最も偉大であった指導者モーセの戒めを破っても咎められなかったのだから、ましてダビデの主であるキリストが先祖の言い伝えを侵しても問題はないでしょう、というわけです。
ところで安息日の戒めは具体的に、出エジプト20:8-11にあります。そこでモーセは、安息日の仕事を禁止し(出エジプト20:10)、「(料理のため)火をたいてはならない」(出エジプト35:3)、たきぎを集めてはいけない(民数15:32)としました。後に、荷物を運んではいけない(エレミヤ17:21)、穀物、食物を売ってはならない(ネヘミヤ10:31、13:15)といった規則も加えられています。さらに後の時代になると、安息日に移動できる距離はいくらであるとか、できる仕事はなんであるとか、安息日に仕事をしないための実に細かな規則が定められていくのです。安息日は、本来人間に休息をもたらすため、神の癒しと回復を与えるためのものでした(創世記2:2、3)。神は、人間を祝福するために、安息日を設けられたのです。そして神を喜ぶその日は、神を知らない人々に神を証しするしるしともなるものでした(出エジプト31:13-17)。しかし、イエスの時代には、そのような精神よりも、安息日の日を守る形が大事にされていたのです。4節「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」イエスは良識に訴えられました。信仰を持っても良識を失ってはならないと思わされるところです。
このように安息日を巡る考え方を修正するイエスに、宗教家たちは、敵意の目を向けました。そして6節パリサイ人とヘロデ党がイエスを葬り去る相談をしたと言います。これは実に奇妙な連合です。ヘロデ党は、宗教的な党派ではなくヘロデ王を支える政治的な集団です。保守的なユダヤ主義者のパリサイ人は、異邦人のヘロデ王を嫌っていましたから、ヘロデ党と手を組むなど考えられない事態です。つまりイスラエルの社会を主導する人々がこぞってイエスの聖書解釈に反対し、イエスの権威に反発したのです。イエスはこの事態に退かれましたが、8節、人々はイスラエル中からイエスのもとに集まってきました。イエスに対する一般民衆からの信任は厚かったのです。
2.弟子を任命する(3:13-35)
イエスは、弟子を任命し、働きを委任していきます(13節)。他方宗教家たちは、イエスを悪魔呼ばわりしました。彼らにとって新しい皮袋を主張するイエスの言動は、プライドの許さない事態だったのです。そしてイエスの家族は、イエスがおかしくなった、と心配しました。神の子でなければ悪魔か狂人というわけです。しかしイエスはいたって冷静です。そして大切なことを語ります。35節、イエスの弟子は、神の心を大事にする家族である、と。宗教的な戒めや儀礼ではなく、聖書が教えるマインドやハートこそ大事にしたいものですね。では今日もよい一日となるように祈ります。