マルコの福音書5章

マルコの福音書5章 信仰に生きる
1.悪霊につかれた人の救い(5:1-20)
イエスの一行が、舟で向こう岸に渡ると、汚れた霊につかれた人が、墓場から出てきて迎えたとあります。彼をコントロールできる者はなく、さらに、彼自身どうにもならない自分に苦しんでいました。なんと不幸な姿でしょう。人間が自分で自分を制御しえない苦しみ、マルコは、彼が一つの悪霊ではなく大勢の悪霊につかれていたのだと語ります。しかし、マルコがこのエピソードを取り上げるのは、たとえそうであっても、恐れることはない、イエスに救いがあると、言いたいからです。人の人生には、いかんともしがたい状況にあって、もはや悪魔に取りつかれたとしか思えないようなこともあるでしょう。しかし、そのような時に、聖書は究極的な解決、イエスの力による解決があると言うのです。
2.病人の癒し(5:21-34)
さてマルコは病人と悪霊につかれた人を区別しています。これは25節、十二年の間長血をわずらっていた女の例であきらかです。彼女は、長いこと、自分の病の癒しを求めてさ迷っていました。不幸なのは、その弱さに付け込み金儲けをする医者たちによって、彼女は、貧しくなり、さらに病状も悪化していたことです。世の中は本当に腐り果てていると思うようなことがあるものですね。そこで、この女は最後の望みをイエスに託するのです。イエスに触れることができれば、癒されるかもしれない、イエスに対する信仰を燃やすことで、この女は、その報いを受けました。昨日申しましたように、4:20神のみことばに懸ける人生に空くじなし、リスクなし、「30倍、60倍、100倍の実を結ぶ」とはこのことです。そしてイエスは、この見上げた信仰を察知し、見つけ出し、称賛しました。まさに4:22「隠れているもので、あらわにされないものはない」とはこのことです。
3.死人の復活(5:35-43)
さらにヤイロの娘の話しは、神を信じるならば、不可能性の中の可能性を考えるべきことを教えます。イエスがヤイロの求めに応じて、ヤイロの家に到着した時には、すでにヤイロの娘は死亡していました。手遅れだったのです。しかし、人間が絶望するときこそがまさに神を信じるべき時です。イエスはヤイロの娘を生き返らせたのです。イエスはまことの神、人のいのちと死を支配されるお方だと言うわけです。イエスに不可能ということばはない。しかし実際問題これらマルコが書き留めたエピソードをどう受け止めるべきでしょう。大方は理性が邪魔をして、昔物語として読み流す分にはよいが、果たして今の自分の人生にこんな信仰が必要だろうか、と思うところではないでしょうか。。
しかし、東日本大震災3.11の時も、また今回のコロナ禍においてもそうですが、やはり人間の力を超えた思いがけない苦悩が突如人生を襲うことがあるものです。そして、自分のことだけではなく、助けを求めてくる人を前に、何もなしえない無力さをただ思い知らされることもあるでしょう。しかし、そのような時に、36節「恐れないで、ただ信じていなさい」とお語りになる神に励まされて、命ある限り、何か道はあるはずと粘る人生も起こりうることでしょう。いかに文明が発達しようと、人類が、長い歴史において信仰を捨て去らずに来たそれなりの理由があるものです。信仰は、人間のいのちを繋ぐ大切な営みなのです。では、今日もよき一日となるように祈ります。