マルコの福音書6章

マルコの福音書6章 信仰の再試験
1.郷里ナザレでの出来事(1:1-13)
舞台はヨルダン(1章)からカペナウム(2-4章)、ゲラサ人の地(5章)、そしてイエスの郷里ナザレへと移っています。さて郷里の人々は、イエスを小さな頃からよく知っていただけに複雑な思いでいました。イエスを預言者としても、また神としてはとうてい認めることはできなかったのです。イエスが宣教の旅に出て、郷里に戻ったのは、これが二度目、約1年後になります(ルカ4:16-30)。最初の時は、人々はイエスに激怒し、丘の崖っぷちから突き落とそうとしました。今回は、ある程度イエスの様々な噂を耳にしていたのでしょう。一応イエスの話に耳を傾けるのですが、やはり、あいつは大工ヨセフのせがれではないか、と心にブレーキがかかってしまうのです。不思議なものです。もしイエスが有力者のせがれであれば、違った対応になっていたかもしれません。しかし、神はイエスを有力者のせがれにはしなかったのです。なぜ神は、ご自身の伝えたいことを伝えるために、こんな愚かなことをされたのか、と思うところですが、真に遜った人間を救いに導くための神の知恵でもあったのです(ピリピ2:6,7)。
イエスはナザレの近くの村々を教えて回り、さらに十二弟子を派遣し、ご自身の働きを拡大されました。弟子たちは、汚れた霊を追い出し(7節)、悔い改めを説き(12節)、病人を癒したとあります(13節)。彼らは、耳を傾ける人に集中して福音を語るように勧められています。
2.ヨハネの死(6:14-29)
さてこのガリラヤ伝道において、イエスは初めてヘロデ王に知られるようになりました。17節から29節は、いわゆる挿入で、バプテスマのヨハネの逮捕とその処刑について記録しています。この時、ヘロデは、ヨハネを殺した呵責に苛まれていました。彼はヨハネを預言者として認め、喜んでその言葉に耳を傾けましたが、彼を殺さざるを得ない事情に追い込まれて、殺してしまうのです。人の心は複雑です。4章の種蒔きのたとえで言えば、ちょうど、彼こそが茨の地の心を持った人というべきでしょう。こうして、彼もまた、ナザレの人同様、イエスの正体を正しく理解できない一人とされているのです。
3.五つのパンと二匹の魚、信仰の再試験(6:30-56)
イエスと弟子たちは、ヨハネの悲報に傷心を癒すため、静かな場所に退こうとしました。しかしそんな事情もお構いなしに群衆が追いかけて来たのです。するとイエスは、彼らを「深くあわれんで」迎えられたとあります。まことの神の子イエスに、感傷に浸る一瞬の時は愚か、食事をとる間、息をつく暇もありませんでした。イエスの人生は全く神のみこころに献げられていたのです。しかも45節、世の教師とは異なって、お弟子に心を配り、細々と動き回っているイエスが印象的です。サーバントリーダーシップとはまさにこういうものでしょう。そして続く嵐を静める奇跡は、4章に出て来た信仰のテストの再試験のようなものでした。なんとも弟子たちはまたもや落第、イエスを神と認めながら、その信仰を働かせることができませんでした。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」というイエスのことばに自ら立ち、人も立たせられるようになったら信仰者として一人前なのです。では今日もよき一日となるように祈ります。