マルコの福音書7章

マルコの福音書7章 心を大切にする信仰
1.律法よりも先祖の言い伝え(7:1-13)
マルコの福音書は、ローマ人の読者を意識して書かれたと言われます。ですから、ユダヤ人にしかわからないようなことには解説が加えられています。3節と4節はまさにその例で、読者にユダヤ人が大切にしていた手を洗う宗教的な儀礼があったことを語っています。ただ、3節それは「昔の人たちの言い伝え」で、旧約聖書の律法とは異なるものでした。当時のユダヤ教を研究した聖書学者たちは、ユダヤ人たちが、旧約聖書よりも、それに基づいて作成された、安息日や食物、割礼などを具体的に定めた昔の人の言い伝えを重んじる、言い伝え主義者というべき状況があったことを明らかにしています。そういうわけで4節の手を洗う宗教儀礼は、今日の衛生的な手段とは異なる宗教的な意味を持つものです。
実際にこのきよめの儀式は、指先を上に向けて両手を出し、手首と指が濡れるまで、ひしゃく一杯分程度の水をかけます。そして手の指先を下に向け、腕から指先に水が流れ落ちるようにし、これを守らなければ不浄である、とされたものです。当時のユダヤ人は、この儀式を厳格に守り、一度でも守りきれなかった宗教的指導者を除名処分にしたり、投獄中与えられた水をこの儀式を守るために使い、結果水を飲まず、死にそうになった者がいたりしたと言うほどです。イエスは、こうした宗教儀礼に熱中する彼らを、8節、「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」と批判しました。
11節「コルバン」という言い伝えも同じようなものでした。コルバンは、ヘブル語で「ささげ物」を意味します。ユダヤ人の中には、全財産を神へのささげ物とする、つまりコルバンにしたので、もはや介護するお金もないと、親の扶養義務を放棄する人々がいたのです。これは宗教を悪用する例かもしれませんが、彼らは「言い伝え」を守ることで「父と母を敬え」という旧約聖書の教えをないがしろにしていました。13節「これと同じようなことをたくさんして」さも表向き神を敬っているようでありながら、神の戒めを捨て去っている宗教的な状況があったのです。しかし人間のいのちや存在を粗末にする宗教などありえません。イエスは、人間として的外れな宗教的な熱心さ、そして宗教を悪用する人間の罪を指摘し、旧約聖書が教えるその精神に立ち返ることを主張し、衝突したのです。
2.心を探求する(7:14-23)
 こうしたことは、現代においてもありうる問題かもしれません。しかしながら、何が問題で、そのようになるのでしょう。イエスは、21節、人の心に注目すべきことを語ります。信仰は、自身の心のあり様を探り、心を高める行為です。体裁の問題ではありません。
3.心を取り扱われた人々(7:24-37)
24節、スロ・フェニキヤの女は、異邦人で、ユダヤ人から見れば汚れた人でした。イエスが見ておられたのは、この女の心です。そこには、イエスが自分の問題をなんとかしてくれる、というイエスに対する深い信頼と、自分の娘を救いたい一心の愛がありました。また32節、耳が聞こえず、口のきけない人に対する癒しのエピソードも同じです。イエスが注目されたのは、この人物を連れてきた人々の心です。そこには彼のために懇願する信仰と愛があったのです。神を深く信頼する心と、神の豊かな愛に生きる信仰の歩みこそ大事にしたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。