マルコの福音書8章

マルコの福音書8章 メシヤキリスト
1.四千人の給食(8:1-21)
パンの奇跡は、先の6:30-44にも出てきました。こうしてマルコは、同じような記事を二度取り上げていますが、使徒ヨハネは、たくさんの奇跡をイエスは行ったと言いながら(21:25)、この手の記事は全く取り上げていません。なぜだろうか、と思います。大切なのは奇跡の後の、イエスと弟子たちとのやり取りでしょう。つまり、マルコは、四千人の胃袋を満たしたイエスの力の偉大さではなく、弟子たちの飲み込みの悪さ、「まだ分からないのか、まだ悟らないのか」(17節)と叱責される状況に読者の注意を向けようとしているのです。人は一度二度、信仰について聞いても、決してその本質を理解できるものではありません。そのような意味で、マルコだけが取り上げる次のベツサイダでの盲人の癒しも、読者に信仰が何であるかを教えようとするものです。マルコはペテロの通訳者でしたから、ペテロの郷里(ヨハネ1:44)で起こったこの奇跡は、繰り返し通訳させられ、記憶に深く、取り上げたこともあるのかもしれません。しかし、この奇蹟の特徴は、瞬時にではなく、段階をかけて完了している特徴を持ちます。つまり、この盲人は、イエスに癒しのことばをかけられましたが、同時にイエスのなさろうとすることに集中を促されているのです。そして「彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのもrrくぁのがはっきりと見えるようになった」と癒しが生じています。神を信じるというのは、神の語られたことは必ずなると、と期待を持って成り行きを見守り続けていくことなのです。
2.ペテロの信仰告白(8:27-38)
27節、イエスと弟子たちは、ピリポ・カイザリアの村々に出かけられました。そしてここで、かの有名な、ペテロの信仰告白が起こります。イエスは弟子たちに、問いかけられました。「人々はわたしを誰だと言っていますか」ペテロはイエスをキリストと告白しましたが、それは、イエスが、旧約聖書に約束されたメシヤであることを確認するものです。
不思議なことにイエスは、その確信を誰にも言わないようにと口止めをしました。それは、彼らが「信仰」と同様に、「メシヤ」の性質についてもよく理解していなかったからでしょう。実際イエスが語るメシヤ像は、彼らが期待するものとは全くかけ離れていました。彼らは、一般の人々と同じように政治的な解放者である救い主を期待していましたが、イエスの意識していたメシヤは、もっと霊的なものでした。ですからイエスは、9:31、10:33と三度に渡って同じことを繰り返し説明し、約束のメシヤは霊的な解放者である、つまり十字架上で人類の身代わりとなって神の怒りを受け、神との和解をもたらす存在であることをわからせようとしていくのです。実にイエスが偉大なのは、人類に永遠のいのちの祝福を得させる、偉大な目的のためにご自身を十字架上におささげになったことにあります。
34節、「自分を捨て、自分の十字架を負って私に従って来なさい」「捨てる」は、「否定する」とも訳されています。自分を捨てるというのは、自分を無くすことではなく、神を否定しやすい自分を捨てることです。それは利己的に生きてはだめ、他者のために犠牲的に生きるのが良いのだ、と言っているのではありません。神を否定し易い人間の性に注意し、そのような自分を捨て、この世に生を受けた意味を問いながら生きていくことを勧めているのです。では今日もよき一日となるように祈ります。