マルコの福音書9章

マルコの福音書9章 神の支配に生きる
1.変貌山の出来事(9:1-6)
1節「神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいる」どういう意味かな、と思うことばですね。恐らくそれは、十字架と復活をもって完了するイエスの生涯のあれやこれやを、そして、イエスのことばの確かさが認められた、聖霊降臨日、ペンテコステの出来事を指しているのではないでしょうか。
そのような意味で、2節以降に書かれた山の上での出来事も、「神の国が力を持って到来する」一つの象徴的なものでした。イエスは、ペテロとヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山へ登られました。そこで、イエスの御姿が変わる出来事があったわけです。「姿が変わる」と訳されたギリシャ語メタモルフースタイ。それは、神々が人間に姿を変えること、あるいは逆に人間が神々の姿になることを表現する時に、用いられた特別なことばです。また、イエスの衣が真っ白に輝いたとあります。ユダヤで白は、神的な世界を表す色ですから、イエスが俗世間を超えた神的な存在としてご自身を表したことを意味します。つまりここで弟子たちは、イエスが神であると確信させられるような体験をしているのです。6節ペテロは「恐怖に打たれた」と言います。ペテロは後に、自分を「キリストの威光の目撃者である」(2ペテロ1:16)としています。様々な人生体験がある中で、神の存在を確信する体験というものはあるものなのですね。
2.霊を追い出す(9:14-29)
さて、山を降りると、他の弟子たちはトラブルに巻き込まれていました。彼らは悪霊を追い出せず、さらに絡んでくる宗教家たちに困り果てていたのです(14節)。「ああ、不信仰な時代だ」(19節)、イエスがちょっとイラついていますね。ペテロのような経験をする人はわずかです。大方は、神の存在も力も見ずに信じると言うことを試されます。ですからここに出てくる父親のように「お助け下さい」とストレートにではなく、「できるものなら、お助け下さい」と中途半端な態度で神に願ったりするものです。また、実際に神を信じていると言いながら、信じ方が表面的だということもあるでしょう。熱心に祈り、自分の信仰を磨くように生きている人というのは少ないものです。
3.塩気を保つ(9:30-50)
何が問題なのか、それは、いばらの地のような心で信仰を持とうとするためなのでしょう(4章)。神は信じてはいるが、世と世の欲が心を一杯に満たしている。だからそれらがみことばの芽を塞いで信仰の実を結ばせないのです。30節以降の、誰が一番偉いかといった議論に熱中する弟子たちは、まさに、彼らがいばらの地の心を持っていたことを伝えています。そんな彼らにイエスは35節、「皆に仕える者となりなさい」、37節の「子どものように」と教えられました。給仕する人は、接待するお客とは別の原理と関心で動いていますね。子どもは詩人と言われるように、彼らも大人とは全く異なる発想で生きています。つまり、イエスは、神を信じていない人々とは全く異なる原理と関心で生きるのでなければ、「神の国が力を持って到来している」ことなど分からずに人生終わってしまいますよ、と言っているのです。50節「世の光となり地の塩となる」それも、信仰に専心する日々あってこそ起こる在り方です。では今日もよき一日となるように祈ります。