マルコの福音書10章

マルコの福音書10章 イエスの考え
1.離婚について(10:1-12)
1節、イエスの宣教の舞台は、ガリラヤからユダヤ地方へと移っていきます(10-15章)。マルコの章立ては単純ですが、それは、神学的、意図的に構成されているようで、実際のイエスが、このようにまとまった形で行動したわけではありません。実際、マルコは、ルカが詳しく描くエルサレムへの旅の間に起こった出来事を(ルカ9-18章)を大幅に省略しています。ともあれ、一般にガリラヤは粗野で、国粋主義が強く、ユダヤはエルサレムを中心とした都会的で、洗練された宗教的正統主義の強い地盤がありました。そのような中で起こった幾つかの論争が記録されています。
まず離婚の問題です。もちろんそれは、イエスから熱心に教えを受けようとするものではなく、イエスをことばの罠に陥れ、失脚させることを狙ったものでした。イエスはこの質問に、結婚の本質的な意味を解き明かすことで回答としています。つまり、結婚は神によって創造された人生における第二の結び合わせです。最初に地上の家族に生まれる血縁の結び合わせがあり、やがて二人は自立して、新たな第二の結び合わせに入るのです。こうして人の誕生も結婚も同じような神の奇跡的な業なのだ、というわけでしょう。だから、これを意図的に解くことは、神の御心に逆らうことになるわけです。
2.子供の信仰VS金持ちの信仰(10:13-31)
続く子どもたちについてのエピソードは、後の金持ちの信仰に対する姿勢と対照的です。イエスは、子どものように素直で単純に信頼する信仰的な姿勢を評価されました。しかし、後に続いて出てくる金持ちは、理屈っぽく、ペダンチックな姿勢を持った信仰者です。金持ちは、一見、極めて探求的で、真面目な信仰者のようにも見えます。しかし、実際には自分の学識をひけらかすだけで、心の底では、神よりもこの世の富を大事にしている人です。全てをささげてイエスに従った弟子たちとは大違いです(28節)。世の理屈からすれば、弟子たちは子どものようで、大人の様な計算のできない人間でしょう。しかし、信仰は計算づくで進められるような世界ではないのです。ただ神を信頼するのみです。
3.ゼベダイの子らVS盲人バルテマイ(10:32-52)
32節はイエスの三度目の受難予告になります。ここでゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエスが王位に就いた時、栄誉ある地位に引き上げてくれるように求めたエピソードが加えられています。しばしば人は計算づくで人生を考え、権力や地位に上り詰めようとします。そしてそれらを手にすると傍若無人な振る舞いをし、人を顎で使うようになります。しかし、そのような世知辛い社会は、この世だけのことです。あの世は別世界の安息。なぜなら、遜りのキリストのもと、罪を告白し、その罪の赦しを受け、キリストに倣う生涯を努力した人のみが入るのですから。さて、最後に盲人バルテマイの物語。先の、自分たちの利己的な願いを気安く語り掛けたゼベダイの子らとは対照的です。彼は卑しい者と見られ、イエスに近づくことを許されませんでした。しかしそれでも彼は、必死にイエスの助けを求めました。遜りのイエスが、このような信仰の呼びかけを見過ごすはずがありません。49節、心配しないことです。主があなたを呼んでおられます。道は開かれました。神は信仰の祈りに耳を傾けるお方です。では、今日もよき一日となるように祈ります。