ルカの福音書4章

ルカの福音書4章 神の子イエスの試み
1.荒野の誘惑(4:1-12)
 イエスはその宣教の生涯の初めに悪魔の試みを受けました。この出来事、マルコはわずか数行で終わらせていますが、マタイとルカは、その内容を詳しく取り上げます。そこでマタイとルカの記録を読み比べてみると、三つの試みの順番が入れ替わっています。どちらが本当の流れであったのか、よくわかっていません。ともあれ一般に40日間は、試練の時を意味します。つまり、全知全能の神の力を持つイエスが、「すべての点で兄弟と同じにならねばならなかった」、とへブル書に語られているように、完全な人であることを試された期間と言えます(ヘブル2:17,18、4:14-16)。そして同時にそれは、イエスの宣教の初めにあたってその使命を自覚する大切な時でした。まずイエスは、最初の誘惑で、人が神との関係で生きることを明確にしています。人は食っては寝て、それを繰り返す生き物ではありません。神との関係に生き、神に与えられた使命を果たす存在なのです(4:1-4)。神の使命に生きるのですから受けた栄誉は全て神に帰し(5-8節)、神の権威を認め、それを犯すことなく生きることが大切になるのです(9-12節)。イエスは宣教の第一歩を踏み進む前に、実に大切な原点に立たされたわけですね。
2.ナザレでの出来事(4:13-30)
さてルカは、荒野の誘惑の後に起こった多くの出来事を省いて、イエスのガリラヤ地方、ナザレでの宣教に急ぎ書き進んでいます。それはイエスが神に与えられた使命の中身を明らかにするためであったのでしょう。マタイ、マルコの記録と読み比べると、ルカが一番詳しくこれを取り上げています。
ところで余談ですがイエスによる聖書の解説は、皆の評判を得、人々の耳目を集めていますね。集まった聴衆にイエスは、聖書朗読のために起立していますが(16節)、解説、いわゆる説教をする時には座られています(20節)。私は、ここに説教は聖書の翻訳に過ぎないという格付けを感じます。礼拝で最も重要なのは説教にあらず、聖書朗読というわけです。確かにすべての良い説教は、聖書が語ることを正しく文脈化して伝えるものです。説教者は、神の上に立つものではありません。まさにイエスは神の権威を犯さない神のことばの伝達者、通訳者として立っているのです。
そこでイエスはイザヤ書を朗読し、この書が実現したことを宣言されます。イエスの聖書解釈の特徴は、旧約聖書をすべてご自分の生涯に当てはめて語り、ご自分が約束のメシヤ、救い主であることを示すところです。そして18節、イエスは、社会で見捨てられているような人たちに向かって、神の恵みの時が来たことを知らせようとなさいました。そこに救い主の使命があると明言されました。しかし22節、ナザレの人々は、そのイエスのことばを受け入れることができません。31節以降、ルカはユーモラスに、ナザレの人々に対比して悪霊の反応を記録しています。つまり、イエスを救い主として最初に認めたのは、人ではなく悪霊であった、と。イエスの生涯を読み、イエスをどのようなお方として受け止めるかが問題です。つまり、信仰をもってイエスを神の子と仰ぎ見るなら、イエスの語る人生100倍の祝福に与るからです。
では、今日の聖書クイズを一つ。イエスがお生まれになった場所は、ベツレヘム、では育った場所はどこでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。