ヨハネの福音書13章

ヨハネの福音書13章 十字架への道
1.仕えること、命を与えること(13:1-20)
この13章からヨハネの福音書は後半に入ります。イエスがメシヤ、救い主であることを証しする一連の奇跡のエピソードが終了し、ここからは、予告されたとおりに、十字架によって人類を神の怒りと呪いから解放する使命を達成しようとするイエスが語られます。
イエスは、水差しと手ぬぐいを持ち、弟子たち一人一人の足を洗い始められました。そしてこれは模範であり、「互いに足を洗い合う」ようにと教えられました。当時イスラエルでは、食事に招かれると水浴をして出かける習慣がありました。現代とは違い、埃っぽい道に、サンダル履きの時代でしたから、足が汚れ、このように招かれた家でもう一度足を洗う、ことが必要となるわけです。通常は、水差しとタオルを持った奴隷が出迎えて、足を洗ってくれて、中に入るのですが、互いに足を洗い合うこともありました。その際に恐れ多くとも、自分の先生とも言うべき人に、足を洗ってもらうこともあったのでしょう。ペテロはそれを拒んだわけです。その後のやりとりは、マルコが記録したイエスの次のことばに集約されます。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)イエスは仕えることを模範とし、16-20節に語られた十字架によっていのちを与えることもう一つのこととされたのです。大切なのは、十字架によって命を与えられた私たちの在り方の本質は「仕えること」にあります。しかしそれ以上に、神が私たちに仕えてくださっているという事実が、私たちを驚かせ、また遜らせるのです。
2.二つの裏切り(13:21-38)
21節からは、ユダの裏切りが語られます。当時、ユダの裏切りを旧約聖書の預言にそって予測していたのは、イエスだけでした(18節)。最後の晩餐につては、レオナルド・ダ・ビンチの名画のイメージで受け止めている人も多いと思います。しかし絵画は書かれた時代と場所の文化を反映することが多く、ここでも実際には、座卓のような低いテーブルの周りに横になって食事をしていたと考えられています。彼らは左下に横になり、左の肘をついて身体を支え、右手で食事をしました。そういうわけで、25節、ヨハネが、イエスの胸元に寄りかかってイエスに言う、という状況が起こるわけです。となると恐らくイエスは、ユダの胸元に寄りかか位置、つまり背後に横たわっていた形になっていたのでしょう。イエスは上向き加減で、そっとささやく形で「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい」と言い、ユダは裏切りのために立ち上がったというわけです。そしてこれを機に、イエスは、後戻りのできない十字架の使命に向かっていくのです。しかしイエスは、それが神に栄光を帰すことであり、神もまたその行為に報われる、つまり人の子に栄光を返すことを語ります。ただヨハネは、この時誰もイエスが語り、なさろうとしていることを理解できていた者はいなかったことを伝えるのです。「どこにおいでになるのか」「ついて来ることが出来ません」理解し得ない対話が続きます。そして36節、もう一つの無計画な裏切りがあったことをヨハネは伝えています。いのちまで捨ててイエスに従うと豪語したペテロですが、彼には口で言うほどの忠誠心もなかったのです。人間は本当に情けない生き物ですね。そうであればこそ、そのような人間を愛し、仕えてくださる神がいるというのは、本当にありがたい恵みです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、主人が食べ物を浸して渡す習慣は、主人の特別な愛情を示すしるしとされましたが、他に、聖書のどこに出てくるでしょうか。どこでしょうか?①創世記、②ルツ記、③サムエル記。昨日のクイズの答えは、ダニエル書でした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。