ヨハネの福音書15章

ヨハネの福音書15章 キリストのいのちに結び付く
1. ぶどうの木と枝(15:1-11)
図らずも、この聖書通読ブログでは、受難週に重なる箇所を読んでいます。このペースですとイースターには重なりませんが、それでも、この受難週、イエスの弟子たちに対する最後メッセージから教えられたいところです。
イエスはご自分について様々なイメージを用いて説明されました。昨日のクイズではありませんが、イエスはご自分を、「門」に例え、「光」、「道」であるともしました。ここでは、ご自分を「ぶどうの木」に例えています。そして、1節、ご自分につながる枝で、実を結ぶ者と実を結ばない者があることに注意を向けています。その違いは、3節、イエスにとどまるか否かです。このようにイエスが語るのは、神から離れ実を結んでこなかった、イスラエルの歴史があるからでしょう。旧約時代の預言者イザヤは言いました。「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家、ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴」(イザヤ5:7)。神に背を向け、神から離れたイスラエルの社会は、悪と不正、そして流血や悲鳴に満ちたものになってしまった、それは、実を結ばない荒れ果てたぶどう畑と同じだ、というわけです。様々な痛みや、嘆き、叫びに満ちた現代社会も同じものかもしれませんね。そのような世界が変わるとしたら、それは、イエスにしっかり留まる人、つまり8節、イエスの弟子となって、公正や正義の実を結ぶ人々が起こされていくことによるのです。
15節イエスは言います。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。わたしはあなたがたを友と呼びました」。大切なのは、イエスを信じ、イエスの弟子になるというのは、イエスの教えに従うキリスト教徒になるというものではありません。イエスは、ご自分の弟子となる者を友とされるのです。距離を弁える師弟関係ではなく、心を許す友の関係を結ばれる。あなたがたは何もわからないから、正しいことを教えようというのではなくて、心の内、腹の内を分かち合って、共に何かをする関係になろう、ということなのです。そうでなくして、痛みや嘆き、叫びに満ちた社会など、イエスと共に変えることなどできないことでしょう。
2.互いに愛し合うこと(15:12-17)
そこで友であるあなたに、イエスは、ともかくご自分の教えの勘所は、愛し合うこと、この一言に尽きると語るのです(12,17節)。愛の実を結ぶ、人を大事にし、支え合う共同体を建て上げる、それが、イエスの弟子たちの第一の戒めです。それは、優しさを振り舞う事とは違うのです。ちょうど12節、「わたしがあなたがたを愛したように」、つまり、究極的には、苦労を惜しまず、犠牲を厭わない愛で愛する事、イエスの十字架愛を模範に生きることです。そうであればこそ教会は、この地上にあって別世界、癒しの場、救いの場と言えるのです。
3.世の憎しみに驚くな(15:18-27)
ただそのような純粋な生き方が理解されるとは限りません。どういうわけか反感を買うことがあっても一々驚くな、と言います。師であるキリストが憎まれたのであれば、その弟子も、同じように扱われることはあるでしょう。そのような人々は、イエスの弟子に反発しているのではなく、神に反発している、神を認められないからこそ、イエスの弟子の忠誠も認められない、というわけです。しかし十字架愛に生きる人々は、暗き世に光る希望の灯であることは歴史が証しているでしょう。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、聖書の中で、「神の友」と呼ばれた人物は誰でしょうか?①アブラハム、②モーセ、③ダビデ、(2歴代20:7、ヤコブ2:23)どの人でしょう。昨日のクイズの答えは、④山でした。(①門(10:7,9)、②道(14:6)、③光(8:12))今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。