ヨハネの福音書16章

ヨハネの福音書16章 苦難に勝利する
1.聖霊が遣わされる(16:1-16)
イエスが公に伝道をした期間は約3年間と考えられています。それまで魚を捕る他、何の変哲もない人生を送ってきた12人の弟子たちにとって、それは実にエキサイティングな日々であったことでしょう。人生は、出会いです。イエスに出会うことで、全く思いも寄らない人生へと彼らは巻き込まれていくのです。しかし興奮に満ちたそのような人生も、突如終わろうとしていました。イエスが去って行くと言うのです。実際イエスに対する宗教家の敵意は極まって、イエスに何かが起こるし、自分たちの人生もこのままでは済まない、そんな不穏な雰囲気に彼らは包まれていました。困惑し、心乱す弟子たちに、イエスはご自分が去って行った後に、彼らの信仰を守り、働きを助けてくださる助け主、聖霊を遣わしてくださる、と語ります。
しかしその聖霊って、何でしょう。エホバの証人のような異端は別として、キリスト教会は伝統的に聖霊もまた神であると教えてきました。父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神、この三つが分かたれることなく一つである「三位一体」の神という教理を教え、守って来たのです。三位一体についてはまた別の機会にお話しするとして、この箇所には、その聖霊なる神の働きが明確に語られています。まず聖霊は、8節、キリスト者を通して世の誤りを明らかにします。つまり、人間の罪を示す、人間が自らを神とし、神を認めようとしない事実に気づきを与える、と言います。また聖霊は、キリストの義を知らせる、イエスのことばが真実で、彼がまことに神の子であったことを明らかにします。そして最後に、11節、これが重要です。世を支配する者に裁きがあったことを明らかにします。つまりこれから裁きが起こるのではなく、既に裁きは終了したことをわからせる、というのです。イエスの十字架の死は、その一度限りの行為で神との和解を永遠に実現するものでした。もはや、人に、神の裁きも、終末の最後の審判も恐れるものではありません。あるのは、新しい人生を先に進むようにと見守る神の愛です。
2.勇気を出しなさい(16:17-33)
さて17節、ヨハネは、この十字架前夜に、イエスのことばを弟子たちがよく理解できないでいた状況を伝えています。イエスは、旧約聖書に預言されたとおり、約束の救い主として十字架におかかりになり、復活し、罪と死の力を打ち破られたのですが、その当時の彼らには、まだ理解し難いことでした。それは、後に、復活のイエスが現れてエマオの途上の弟子たちに解説されたように、あるいは、ペンテコステの聖霊降臨の出来事が起こって弟子たちが天来の諭しを与えられたように、いましばらく時間を必要とすることでした。そこで彼らは聖霊を祈り求めるように勧められています(23,24節)。聖霊が、イエスに関するすべてのことを教えてくださるからです。最後に32節、イエスは、弟子たちが避けられない痛みと悲しみの中を通り、散らされること、そしてイエスが一人取り残されることを予告します。この時代、キリスト教会には、迫害の嵐が巻き起こっていました。その中で、イエスと同じように一人取り残された思いにあり、信仰を捨てる危機に立たせられていた者もいたことでしょう。であればこそ33節「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と、勝利者イエスの言葉を繰り返す必要があったのです。キリストにあって無駄な苦難はなく、失望に終わる苦難もありません。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、聖霊の別称として間違っているものはどれでしょう。①助け主、②御霊、③魑魅(すだま)、昨日のクイズの答えは、④アブラハムでした(2歴代20:7、ヤコブ2:23)。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。