レビ記6章

6章 代償のささげ物続き、全焼のささげ物、穀物の捧げ物補足
1.代償のささげ物の続き(6:1-7)
大雑把な言い方ですが、先の5章では、神の所有権を侵すことについて、代償のささげ物を献げるべきことが、ここでは、人の所有権を侵すこと、つまり預り物の横領、盗難、脅迫、ゆすり、偽証が問題にされています。横領というのは、不法に物事を所持する罪ですから、そのような違法行為は、神の民にはふさわしくない、ということでしょう。
このような罪が赦されるためには、やはりそれ相当の償いが要求されるわけです。しかし、相当というのは、それが罰することを目的とせず、神の民として正直さや、誠実さを回復させる教育的な目的があるからです。
またイエス・キリストの十字架の犠牲も、イザヤが言うとおり、明らかに「代償のささげ物」でした(53:10)。人間が神を認めないということは、いと高き主権者に対する反逆であり侮辱罪ですから、まず罪のきよめのささげ物でもって宥められなければなりませんでした。そして人の罪は、同時に神の所有を侵しています。つまり神は私たちに礼拝を要求しておられるのに私たちはそれに応えようとしません。また、神が与えられたものを正しく管理することが求められているのに、それを適切に用いようとせず、私腹を凝らしたり、自分に富を集中させようと搾取したりしています。人は豊かに持っているように勘違いしていて、実際には神のものを横領しているのです。そうであればこそ、キリストが、私たちのために代償のささげ物となってくださった、と語るイザヤの言葉をはじめ、聖書の証言を深く感謝をもって受け止めるべきだとなります。キリストは、私たちの罪の赦しのために、十字架にご自分のいのちをお献げになりました。そして、多くの苦しみを通して、その贖いを完成されたことを思う時に、実は、このレビ記の代償のささげ物の規定に定められた五分の一も加えてくださったということに思い当たるのです。イエスは、牢獄から出るための保釈金は、一レプタ足りないだけでも出られないとたとえ話で語られましたが(ルカ12:59)、イエスはその最後の一レプタまできっちり私たちのために支払ってくださったのです。
2.祭司に宛てられたささげ物(6:8-30)
さて8節から再び全焼のささげ物について語られます。全焼のささげ物、それは主にいのちをお献げすること、つまり神に対する献身を表明するものでした。そこで一晩中、朝まで祭壇の上で燃え続けさせ(9節)、さらに朝毎に新しいものを献げるように(12節)教えられています。しかも、出エジプト29:38-42に書かれているように、共同体全体のために献げられるものです。これによってイスラエルの民は、神がいつも自分たちと共におられることを覚えたのです。その作業内容が指示されていますが、興味深いことは、灰を除去する卑しい仕事ですら、それは、祭司によって行われたこと、また、聖俗の区別をするために、わざわざ祭司は着替えるように指示されている点です。特定の奉仕がいかに卑しいものと思われようとも、神に仕えているという全体の流れの中で、決して物事を粗末にしない、面倒と思われるような作業を一つ一つ丁寧に行うことで、献身の程度も現されたと言えるでしょう。
ともあれ、朝ごとに、夕ごとに、共同体のために、新しい犠牲動物をささげ続けることによって献身を表明するのが祭司の役割です。まだ暗いうちに、朝毎に祈りの火が教会堂に灯される、それ自体が、献身の証なのです。そして、ペテロが言うように、万人が祭司であるとするならば、その朝毎の祈りに、信徒もまた参集する、これは、教会の大きな証しです。朝毎に、信徒が教会堂に集まりあう靴の音が町に響く、そして、教会堂に火がともり、静かであるけれども、ささやかな祈りの時が熱心に継続されていく、これを世に対する証と言わず、何と言うべきでしょうか。今日の教会に求めらているのはまさにこの祈りの証です。
14節から23節は、2:1-16で既に述べられた穀物のささげ物に関する補足です。ささげ物の残りの部分をどうするか、幕屋内の指定されたところで、祭司が食するように教えられています。大切なのは、それらが聖なるものであるから、聖なるものとして扱われ、聖なる恵みに与るように語られている点です。キリスト者の聖さは、神の恵みです。それは、聖くなろうと努力するところに生じるのではなく、神が聖とするものに触れることで生じるのです。ついでモーセが語られたことは、祭司もまた献げものをすべきことです。祭司であるからといってその役得に与っていてはなりません。祭司も祭司の子らも、献げるべきものを献げなくてはならないのです。
24節からは、罪のきよめのささげ物の補足です。これもまた残りのものをどうするか、儀式の過程で偶発的に起こった出来事、つまりささげ物の血によって衣服を汚した場合にどうするか、などを述べていますが、興味深いことは、会見の天幕に持っていかれた罪のきよめのささげ物は食べてはならない、とされている点です。ある種のささげ物は聖別され、その尊さの故に、祭司も食べることができませんでした。聖なるものとされたものは、神のもの、神の尊さへの配慮を欠いてはならないのです。教会で執り行われる一切は、神の栄光を仰ぐ、神のみが崇められるためのものであり、神の所有があり、それを決して侵してはならないことをしっかり肝に銘じたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>

最初に、昨日のクイズです。エパは、個体容量を量るときの基本単位ですが、十分の一エパは、約何リットルに相当するでしょうか?答えは約2リットル、1エパは約22リットルです。
では、今日の聖書クイズを一つ。レプタは、最小の銅貨として用いられましたが、おおよそどのくらいの価値があったと考えられるでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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