士師記17章 主が私を幸せにしてくださる

17章 めいめい自分の目に

1.的外れな親子

17章はミカという人を巡る、種々のエピソード、しかしこれが何か現代の宗教的な事情も反映しているようで興味深い内容です。まず、ミカが自分の母親のお金を盗むエピソードが綴られます。母親は、お金が盗まれたことを知り、盗んだ人を呪うのですが、それが息子だとわかると、その呪いを取り消して、むしろ祝福を祈るのです。さらに、返されたお金で、彫像と鋳像を作ったと言います。このようなエピソードを読むと、本当に信仰って何かなあ、と思います。別にミカも、母親も神を恐れているわけではありません。ただ宗教的に生きているだけでしょう。神などいると思えばいるし、いないと思えばいない、というのは、まさにこういう状況に思わされるわけです。そして聖書は、これを、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」と解説するのです。すべてにおいて自己満足的な生活、本来絶対的なものであるはずの信仰ですら、人が認めようと認めまいと私はこれでいいんだと、自分流でよしとされる時代、それが、モーセ、ヨシュアなき時代でした。

2.レビ人の若い浪人

次の7-13節のエピソードもまた、そんな相対的、自己満足的な信仰の在り方を物語るものです。ミカは、神殿と、さらにその神殿を飾る偶像を持っていました。しかし、残念なことに、そこを仕切る祭司がいなかったのです。彼は、息子の一人を祭司としていましたが、それはあくまでも代用でした。資格のある人がいれば安心というのは、よくわかることです。そんな折に、浪人のレビ人、いわゆるイスラエル人が唯一祭司の働きを認める部族の若者が流れ着いてくるのです。そこで彼は、その人を自分の神殿の祭司として迎えるのです。

ミカは言います。「私は主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから」(13節)。神殿があり、偶像があり、祭司がある。イスラエルの伝統からすれば偶像は余計なものですが、当時のカナン地方の文化からすれば、神殿、偶像、祭司の三拍子が揃う、もう祝福・繁栄間違いなし、というわけでしょう。

3.自己流の宗教性を超えて

改めて宗教って何なのか、と考えてみたいところです。宗教的な生活はしている。しかし、目に見えない生けるまことの神を恐れているわけでもありません。自分が信じているものの実質を問うわけではない、ただ、家内安全、商売繁盛、無病息災、といったご利益を求めて、そのご利益をもたらすものであれば何でもよい、という自分本位の、ご都合主義の信仰。士師記を読むと、それはまさに、古代イスラエルのお話でありながら、何か今日的な状況を思い浮かばせるような内容です。世俗的な祝福は、自己流であっても得られるかもしれないが、神の霊的な祝福は、本当に聖書流に立っていく時にこそ、理解され、得られていくもののはずです。しかし、クリスチャンとは名ばかりで、聖書の中身もよくわからないし、聖書を取り去っても成り立つ、ご利益信仰と変わらない信仰を持っている人も少なくないのではないでしょうか?結局、クリスチャンの信仰のあり様が、神はいると思えばいるし、いないと思えばいない、という程度のことであったりするのです。互いに聖書から教えられて、自己流から脱皮して、まことに神に教えられた歩みをしてまいりたいところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

 

<クイズコーナー>

最初に、昨日のクイズです。サムソンが使った「ろばのあごの骨」は、アフリカやラテンアメリカでは楽器として使われますが、それは何と呼ばれるでしょうか?答えはキハーダです。ロバや馬の下顎の骨を乾燥させ、歯肉を落とすと、歯が自由に動くようになり、効果音を出す打楽器として使われます。では、今日の聖書クイズを一つ、旧約時代、銀は、どこからパレスチナに運ばれていたでしょうか?答えはまた明日、では、今日もよき一日となるように祈ります。

 

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