出エジプト記24章

1.契約の作成(24:1-11)
シナイ山において、イスラエルの民は神と契約を交わし、神との一層深い関係へと導かれた。これはイスラエルの歴史において最も重要な出来事であった。
 契約は、両当事者が、特定の関係に入る取り決めであるが、聖書の言う契約は普通の合意とは異なっている。普通は、契約の両当事者が平等の立場で合意する。しかし聖書における契約は神が主導権を握って、人間に近づいて、特定の関係を提案する。人間の側は、この契約を受諾するか否かだけが許されているのであるが、実際には、この契約を受ける資格は人間にはない、という前提がある。だからこの契約は一方的ではあっても、不本意な契約どころか、神の愛による、神の深いあわれみによる契約なのである。事実、契約は、「主が彼らの神となり(20:2)、彼らが神の戒めに従い、掟を守るならば、必ず祝福をもって臨む」というものであって、神が人に祝福を一方的に差し出し、約束しているものである。
モーセは契約を全て受け入れた後、なお山上に残った。それから民のもとへ帰り、神の律法を読み聞かせ、犠牲の血をもって契約を調印した。祭壇は主の臨在を現し、祭壇と民との上に半分ずつ注がれた血は、この契約によって主と民との間に成立した結びつきを象徴した。なぜ血が必要だったのだろうか。種々の説明がある。それは家族的な切れ難い結びつきの強さを示している、とも、あるいは、契約が破られるならば死んでも構わないという、いのちをかけた決意を表現しているともされる。ともあれこの血は全焼のいけにえと和解のいけにえの血である。それは、罪の赦しよりも献身や神と関係を喜ぶことを中心とする。つまり、主がこの契約を喜び、この契約を守ることに専心、献身することを意味している。いのちを注ぎだす決意をするのは、人よりも神である。だから、後にこの契約が破られた時に、神は、イエス・キリストの十字架の犠牲による、新しい契約を提案するのである。イエスの十字架の血によって結ばれた新しい契約は、永遠の罪の赦しと永遠の神の愛と祝福を約束する契約である。神の約束は真実であり、神の意志は死の門を打ち破るほどに堅いのである。
モーセは、アロンとその二人の子ナダブとアビブおよびイスラエルの長老70人とともに、再び山に登った。彼らはイスラエルの神を仰ぎ見たという。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった(10節)、という。彼らは神を見ながら、しかも飲み食いをしたとする。これは、和解のいけにをささげた後には自然な流れであり、神との契約の出発点は、喜びに満たされていた、ということである。
2.石の板を受ける(24:12-18)  
さて、モーセが一人、神に招かれて、神の山へと昇っていく。モーセが山に登ると、雲が山をおおったとある。モーセは雲の中に入って行き、匿われ、そして山に登った。彼はこうして四十日四十夜、山にいて、神の御教えを記した石の板を授けられた。神は、モーセに、イスラエルが神の民としての独自の歩みを進めるための重要な御教えを与えられたのである。
神はご自身の夢を、わずかな人に告げられる。神の声を丁寧に聴き、神の民を神の民として育て導く働き人にそれを告げられるのである。神に一人近づき、匿われて、さらに自ら神に近づき、神と語り合う。それは、神秘的なことではなく、神が託された聖書を、一人真摯に読み解いていくことに他ならない。だがその一事を守る人は、山に登るごとく、わずかなのである。神のことばである聖書を日々丹念に読み解く中で、神の肉声を聞いていく。ヨハネがそうであったように、神の懐に抱かれる人こそが、神とその幻を解き明かすであろう。まさに神の民を導き教会を建てあげることは、神との二人三脚の働きである。

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