出エジプト記25章

 神と契約を交わしたイスラエルの民は、神のために幕屋を設けていく。8節、「(イスラエルの民に)聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らの中に住む」と約束されたように、そこは、神が住まわれる場所であり、また神が民と会見される場所である。そしてそこでは犠牲がささげられた。つまりそれは、肉体をとって私たちの間に住まわれたキリストとキリストの贖罪を象徴する。25章は、その聖所、つまり幕屋をどのように造るのか、具体的な指示となる。
1.幕屋の材料と出所(25:1-9)
 最初に、幕屋を造るために、「すべて、進んで献げる心ある人から」材料を得ることが勧められている(2節)。神が住まわれる幕屋のために誰がその材料を用意するのか。神の民である。教会は誰が出資するのか。所属教会の信徒である。だが、信徒は信徒でも、「進んで献げる心ある信徒」である。強制ではなく、自発的な心から自分たちの教会を愛し、教会を強くしようとする信徒である(2コリント9:7)。献金はそれ自体が、目に見えない、全能の神にささげる行為なのだから、新しく来た人や求道中の人、つまりまだ神様をはっきり認められず、信じることに求めることはあり得ない。信仰的な行為であるからこそ、それは、自発性的であり、どうでもよい余り物ではなく、自分にとっては最も貴重と思われるものでも喜んで献げることになる。信仰を持ったならば、自分の持っているモノをどのように用いるかについては、深い理解を持ちたい。信仰を持つ前と変わらずに、ただ自分の満足のゆくように、自己本位に考えるのではなく、全ては神の恵みによって与えられたもので、神に守られて、そしてエジプトの滅びの穴から救われて今がある、という自覚がしっかりとあれば、その与えられたものの使い方も変わってくるはずなのだ。付け足しの礼拝、付け足しの献金には決してならない。
結局、私たちを罪の滅びの中から救い出された天地創造の神がしっかり覚えられているか、どうかがその人の信仰の歩みにおいて決定的である。神の恵みを覚えればこそ、神の恵みに応答するキリスト者にもなりうる。
2.幕屋の調度類(箱、机、燭台)(25:10-40)
アカシヤ材の箱、つまり契約の箱の制作方法が指示される。それは、神の臨在を象徴したが、それ自体に神の保護を保証する魔術的な意味はない。実際ダビデはそのようなお守り的な用法を拒んでいるし(2サムエル15:25)、またエレミヤもそのような象徴はいずれ必要ではなくなる日がくることを預言している(エレミヤ3:16)。確かに、今の私たちの教会に契約の箱が置かれることはない。置かれることはないが、会堂においては、神の臨在を覚えて礼拝されるべきであり、礼拝の全ての行為は、神にささげられるものである。
さて、これらの調度類を作るに際しては、純金1タラントが使われるべきことが規定されている(39節)。神の幕屋の道具として最も重要な備品が純金1タラントで作られる。新約聖書には、イエスがタラントのたとえを語っている(マタイ25:14-30)。それは、人間がそれぞれに与えられている異なる才能や能力を神の働きのために活用すべきことを語っている。タラントは明らかに、人によって差があるように感じられるものである。ある人には多くのものが与えられているように思われ、ある人には考えようによっては全く与えられていない、そんな風に聞こえる話しである。しかし、多く与えられたものに象徴されるタラントの量は10タラント、少なく与えられたものに象徴されるタラントの量は1タラントである。1タラント与えられた者は、こんなもので何の商売ができようか、とそれと使わず、放置していたのであるが、神の幕屋の重要備品に使われた金の量は1タラントである。神は、ご自分の臨在の象徴である、最も重要な幕屋を作るのに、1タラントで十分だとされたのである。となれば、信徒が1タラントの才能と能力を神のために進んでささげる信仰があれば、神の臨在の象徴である、輝かしい教会が建つということではないか。ただそもそも1タラントとはどのぐらいの量なのか。新約聖書の場合それは、6000デナリ、1500シェケル、60ミナに相当した。つまりタラントは、日本円で言えば、漱石ではない諭吉の単位、いやそれ以上であった。実際1デナリは、一日分の日当と言われるから、タラントは諭吉の単位ではない。そして1タラントは6000日分、月20日計算でいけば、25年分の給与となる。度量衡で言えば金約30キログラム相当とされる(出エジプト38:25)。つまり人間は自分を低く評価しがちであるが、神の目には高価で貴い存在である。大切なのは、ないものねだりをせずに、自分に出来ることを25年積み上げていくことなのだろう。時間も賜物である。
 また、それぞれの備品が意味するものに注意しよう。アカシヤ材の箱は、契約の板を入れるものであった。つまり神のみことばと臨在の象徴である。また、アカシヤ材の机は、備えのパンをのせるもの。つまり、神が私たちにあらゆるものを備えられるお方であることを覚える象徴である(マタイ6:11)。そして燭台(メノーラ)は、今日、神殿の丘の側に、まばゆく輝くものを連想させるが、それは神が命と勝利をもたらす「光」である(マタイ5:14-16)ことを象徴する(詩篇27:1)。これらは、すべてイスラエルがその歴史において経験してきたことの象徴である。つまり、エジプトの奴隷であった頃、闇の世においてイスラエルの民は神に光を見出した(燭台)。またそれは、異邦人への光であるというイスラエルの役目も象徴している(イザヤ60:3)。そして、彼らはまた荒野の40年の旅にあって、マナを備え養われる神を味わった(アカシヤ材の机)。最後に、いつも、そのように共におられる神を体験してきた(アカシヤ材の箱)。神の導きと、養い、そして臨在の象徴がこれらの調度類の作成だったのである。私たちの礼拝の中心に、まさに、神の導き、養い、臨在を覚え、感謝する心を持たせていただこう。

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