出エジプト記28章

1.祭司の装束(4-43)
 祭司服作成の規定が記される。祭司は、神と人との仲介者である。幕屋を造営することは、神との交わりを回復するための第一段階であるので、次に、神と人を仲介する奉仕者を立てなくてはならなかった。モーセは、律法と契約の仲介者となり、アロンとその子孫が、民を神に結び付ける仲介者の奉仕を担った。
 28章は、アロンとその子らが祭司として神に奉仕するための、聖なる装束の仕様を定めるものである。4-39節までが、大祭司の装束、40-43節は、普通祭司の装束の規定となる。大祭司は、胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を身に付けた。エポデと裁きの胸当てが入念に説明されるが、残念ながら、それらの用語の正確な意味は、当時の読者にはよく理解できたものなので細かいことに集中しており、それだけ現代の私たちにはよくわからないものとなっている。しかし、重要な点は、彼らの衣服は「神聖」なもので、他のものと区別される「栄光と美を表す」ことを示すことだろう。
後にイエスは、律法学者たちが、自分たちの身につける装束について、経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりすることについて批判している(マタイ22:5)。それは、「栄光と美を」神ではなく、自分たちのものとしようとすることへの批判であった。彼らは、神に仕える職務を通して、何よりも自分の名誉欲を満足させようとしたのである。しかし、祭司は、自分ではなく、神に仕え、次に民に仕える。彼らが身に着ける装束は、民の間に臨在される神と民を快く赦し、導きを与えられる神を象徴するものであったのだ。それらは実にきらびやかな霊的な意図を持つ装束であった。
(1)エポデ(28:5-14)
「エポデ」は、旧約聖書にたびたび登場する。少年サムエルは、亜麻布のエポデを着ていた(1サムエル2:18)。祭司の町ノブの男たちもみなそうであった(1サムエル22:18)。またダビデは導きを必要としていた時に、エポデを持ってくるように祭司に頼んでいる(1サムエル23:9)。また、エポデは士師記では偶像の婉曲的な表現ともされている(8:27,17:5)。ここでは聖なる装束として、しかも、イスラエルの息子たちの名を刻んだ石を肩当に取り付けたものを造るように指示されている。エポデが、今日で言えば胴着にあたるのか、あるいはキルト風のスカートにあたるのか、実際にそれがどんなものであったのかは、わかっていない。しかし、アロンは、イスラエルの息子たちの名を刻んだ石がついたエポデを来て、幕屋に入るのであって、その時は、次の裁きの胸当てが象徴するものと同様、民の代表者として入ることが明らかである。
(2)裁きの胸当て(28:15-30)
「裁きの胸当て」は12種類の宝石で飾られた。これも、イスラエルの息子たちの名にちなむもので、イスラエルの民を象徴する。神の目に、イスラエルの民は、宝石そのものである(マラキ3:17)。つまりエポデの肩当にしろ、胸当てにしろ、これらは、祭司の威厳をかもし出す単なるお飾りではない。イスラエルの民のすべてが、神と人を仲介する祭司の胸(思い)と肩にかかっていることを意味している。アロンとその子らは、人を神に結びつける働きをしなくてはならなかったが、神の働き人は、そのような者であるという自覚のもと、神の前に朝毎にその務めをするのである。それは人を喜ばせる以前に、神を喜ばせる働きである。
 「ウリムとトンミム」は、よくわからない訳であり、実際に何であるのかはわかっていない。おそらく、木片か、金属か、石か何かで出来ていて、神のご意思を明らかにする、くじのような託宣用具であったと考えられている。ただ、これは中心的な用具ではない。聖書的には神が直接啓示によってご自分の意思を明らかにされている。実際イスラエルの歴史では、神の御声を聞くのに預言者の活動が中心で、このような機械的、呪術的方法は必要とされなかった。
(3)その他の装束(28:31-43)
「金の鈴」は、魔除であるという一説があるが、天地創造の神に魔除は不要である。むしろ確認の鈴とされる。35節に「彼が聖所に入って主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死ぬことのないようにするためである」とある。つまり、鈴の音が鳴ることで、イスラエルの民は、幕屋の中にいる祭司の動きを確認することができた。鈴が成っていれば、民は祭司のささげ物が受け入れられ、祭司が死ななかったことを確認できたのである。民は、可視的に幕屋の中を覗くことはできなかったのであるが、聴覚的に幕屋の中で起こっていること、神の恵みを悟ることができたのである。「亜麻布のももひき」は、おそらく他の宗教によくある裸になって祭儀を行うことに対する区別のために、イスラエルの祭礼の尊厳を持つためのものなのだろう。
 祭司の装束を思い浮かべながら考えさせられるのは、私たち自身が神の前に立つ時のあり様である。イエスは、王子のために結婚の披露宴を設けた王のたとえを語っている(マタイ22:1-14)またヨハネも、神の前に「白い衣を着せられ」(黙示録3:5)ている信仰者の姿を描いている。エジプトの奴隷状態から抜け出たイスラエルの民が、このような祭司の服を作りえたのは、エジプト脱出の際の、エジプト人からの贈り物の故であった。それは備えられたものである。同様に、私たちの礼服や白い衣も神が備えてくださる。イエスの十字架によって備えられたキリストの義という衣がそうである。
また一人一人が、神によって自己目的を遂げるために生きているのではなく、ペテロが勧めているように(1ペテロ2:9)、人を神に結びつける祭司として召されているという自覚を持って、キリストの義の衣を身に付け、神の前にとりなす歩みをしていく者であろう。

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