レビ記2章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、今日は、穀物のささげ物についてですが、私たちの献金のあり方について深く考えさせられる原理原則が語られるところです。全て主に守られて、祈りによって進められている日々の労働の実をささげる、そんな認識を深めたいところです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

レビ記の最初の七章は、主にささげられるべきささげ物について扱っており、第二のいけにえは、供物のささげ物である。香りのあるささげ物と香りのないささげ物に分けるならば、先の全焼のいけにえにと共に、穀物のささげ物は香りのあるささげ物となる。
1)穀物のささげ物の種類と特徴 
通常、穀物のささげものは、動物のいけにえに添えてささげられた。ただ例外として、いけにえの動物を手に入れることができない貧しい者は、動物のいけにえに代わる罪のためのいけにえとして、これをささげることができた(レビ5:11)。それ以外は、毎日朝と夕にささげられる全焼のいけにえに添えてささげられた。他方、穀物のささげ物は、小麦であることが指定された。それは、当時の穀物の中で、最も高く値積もりされたものである。つまり、イスラエルの民は最上のものをささげることが求められた。貧しいからといってささげるものがない、という言い訳はできず、ささげる場合は、最上のものを、これがささげる者の心得である。
さて穀物のささげものは、土地を耕す人間の労働によって産出された農産物のささげ物であるが、三種類定められている。料理していない小麦粉(1-3節)、手で平らに伸ばされ、熱い石かかまどで焼かれたパン(4-13節)、そして単に火であぶっただけの穀粒か引き割り麦である(14-15節)。穀物といえども、多様な形でささげられることが許されたのは、それぞれの財力に応じたささげ方が許された、ということなのだろう。いずれにせよ、手が加えられている点が重要であり、それは、労働の実をささげることを意図している。額に汗をして、苦労の末手に入れた、労働の実をささげるのである。つまり全焼のいけにえは、いのちそのものをささげる行為であるが、穀物のささげ物は、いのちの営みの結果をささげる。いずれにしても、ささげ物は、いのちをささげる行為にほかならない。
2)ささげ物への追加物と禁止されるもの
ところでこの穀物のささげ物は、乳香、油、塩を混ぜてささげられた。また、パン種や蜂蜜を入れることは禁止された。それぞれ意味のあることであった。
油は通常オリーブ油であり(1,4-7、15-16節)、王や祭司の任職の際に、注がれるものであって、聖霊の象徴である(2コリント1:21-22)。主の聖なる生涯も聖霊の油注ぎを必要としていたように(使徒10:38)、私たちも聖霊の油注ぎを受け、聖霊のお取り扱いを受けたいのちの営みをささげるのである。確かに、私たちの人生の歩みは聖霊の助けにより、成り立つものであり、勤労の実も、聖霊の守りと助けがあって、産み出されるものである。聖霊の働きを信頼し、感謝しつつ、ささげる心掛けがそこに教えられている。
乳香(1、15節)は、かんらん科の植物の樹脂で幹に傷をつけると乳白色の樹脂がにじみ出てくる。様々な種類のものがあったようだが、当時は入手しにくい非常に貴重なものであった。乳香は古代エジプトにおいては、神にささげる薫香として使われ、王だけしか使うことを許されなかった聖なるものである。このエジプトの習慣が出エジプトと共に、ユダヤ人に伝わり、神にささげる薫香として用いられるようになったとされる。乳香の煙は神を拝する人々と神を結ぶもの、つまり祈りの象徴である(詩篇141:2,黙示録5:8)。主にささげる供え物は、常に祈りをもってなされた。
また、塩(13節)は、腐敗を防ぐことと味付けをすることがその目的であるが、「神の契約の塩」(民数18:19)と語られるように、それは、神の不変の契約の象徴である。神は、永遠の契約関係の中に私たちを入れてくださっていることを覚えてなされるものである。
以上から、全焼のいけにえが、イエスの十字架の死、つまりいのちをささげることであったとしたら、これは、イエス・キリストの生活と品性がささげられたことを思い起こさせるものである。イエスの地上の生涯が、神を喜ばせる実としてささげられたように、私たちも、私たちの日々の労働と生活が、神を喜ばせる実となることを願ってささげるのである。だから穀物そのものよりも、穀物という収穫を生み出した私たちの忠実さや誠実さが、そこでささげられるのである。だから今日の貨幣を労働の実とする社会にあっては、お金がささげられるのであるが、神が喜ばれるのは、お金ではなく、その結果をもたらした私たちの誠実な労働である。確かに、どれほどたくさんのささげ物であっても、不正なお金、不正な実をもらって嬉しい者はいないのであるし、神を思う思いの希薄な形ばかりのささげ物も、喜ばれることはない。
だからささげものには、パン種や蜜を入れてはならなかった。それらは、発酵や腐敗を促進させる作用があるので、それらから全く自由にされた聖別されたものだけをささげることが期待された(1コリント5:6-8)。私たちが古いパン種を取り除き、聖霊に信頼し、祈りにより塩味の効いた神の栄光を現す生活と勤労を重ねる、そのような営みから出た実をささげる、そこに、穀物のささげものの意味がある。礼拝における献金の行為は、実際には私たちの日常生活と切り離すことはできない。イエスの生活と品性に近づく信仰の鍛錬があってこそのものである。そのような認識のもとにささげられる献金であればこそ、教会財政も本当の意味で強くされるであろう。主に対するささげ物の認識を新たにしたいところではないだろうか。

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