レビ記6章

皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。昨日送ったと思ったメールが送られていなかったようです。大変申し訳ございません。二日分を送付いたします。今日でレビ記に規定された五つのささげ物の全部の解説が大まかに終わります。この五つのささげ物が、彼らの宗教祭儀の考え方の基本なので、それらの特徴をよく整理して理解しておきたいところです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.人の所有権を犯すことへの代償のささげ物(6:1-7)
前半は、代償のささげ物の続きである。先の5章では、神の所有権を犯すことへのささげ物であったが、ここでは、個人の所有に対する罪、預り物である隣人の権利に対する侵害、盗難、脅迫、ゆすり、偽証が問題にされている。預り物について偽るというのは、結局それらを不法に所持したいという貪欲さがあるためであり、そのような違法行為は、神の民にはふさわしくない、ということである。
こうした罪が赦されるためには、適切な賠償を必要とする。それは、あくまでも教育目的であり、罰することが目的なのではない。神の民として正直、誠実であることが重要であるとわからせるためである。こうして初めて、彼は代償のささげ物を持ってくることが許された。
またイエス・キリストの犠牲は、イザヤが言うとおり、明らかに「代償のささげ物」であった(53:10)。それは、いと高き主権者に対する反逆、致命的な侮辱の罪であるから、まず罪のきよめのささげ物でもって宥められなければならない。しかし同時に、その罪は、負債を伴っている。つまり神は私たちに礼拝を要求しておられるのに私たちはそれに応えず、資産の一部を要求しておられるのに、それを保留にし、物惜しみしながらささげている、そして主のために働くべき賜物を用いて、自分のためにそれを利用することで、主に大いに侵害行為を働いてきたのである。つまり人間は、神に対して負債者なのであり、イエスが教えられたとおりに、「私たちの負い目をお許しください」と熱心に祈らねばならない者である。聖書は、その負債を完全に支払うまでには、解放されえないたとえ話があるように(マタイ18:34)、私たちの状況は極めて深刻なものである。そうであればこそ、キリストが、私たちのために代償のささげ物となってくださった事実を深く感謝することができる。そしてキリストが十字架にご自身をささげたのみならず、多くの苦しみを通して、その贖いを成し遂げてくださったことを思う時に、律法に定められた五分の一を加えてくださった、つまりは最後の一レプタまで支払われたことへの感動も生じることになる(ヘブル6:7)。
2.祭司に宛てられたささげ物(6:8-30)
続いて、全焼のいけにえについて再び語られる(8-13節)。全焼のいけにえは、主に対する献身の姿勢を表すものであったが、それは、「一晩中、朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火をそこで燃え続けさせる。」(9節)。また、「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない、祭司は朝ごとに、その上に薪をくべ、その上に全焼のささげ物を整え、その上で交わりのいけにえの脂肪を焼いて煙にする」(12節)と勧められる。
これは、出エジプト29:38-42に書かれている共同体全体のためにささげられたいけにえである。この儀式によってイスラエルの民は、神がいつも共におられることを覚えたのである。その手順が指示されているが、火を絶やさないようにするため、安息日の禁止規定も、この儀式には適用されなかった、とされる。手順で興味深いのは、灰を除去する卑しい仕事ですら、それは、祭司によって行われたこと、また、この仕事のために、わざわざ彼は着替えなければならなかったことである。特定の奉仕がいかに卑しいものと思われようとも、神に仕えているという全体の流れの中で、決して物事を粗末にはしない、外見的にもまた心の上でもすべてを丁寧に行うことが求められている。
ともあれ、朝ごとに、夕ごとに、共同体のために、新しい献身を意味する犠牲動物をささげ続けることが祭司の役割である。それは、継続的、また習慣的に祈りをささげることに他ならないことだろう。そして、今日は、万人が祭司であると教えられている。ペテロは言う。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司」(1ペテロ2:9)であると。つまり朝毎に霊の熱意を燃やし、祈りの炎を熱くするのは、牧師だけではない。信徒一人一人にも大いに期待されていることである。パウロは「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ12:11)と語ったが、毎日、献身の思いを鈍らせ、祈りを減じる灰を取り除き、新たに霊の炎を燃やす。こうした営みが共同体の存続のために必要とされているのである。朝ごとに、主の前に立ち、主の祝福を自らの内に、また主にある兄弟姉妹の内に祈っていくことは、神に命じられた務めなのである。
14節から23節は、2:1-16で既に述べられた穀物のささげ物に関する補足である。ささげ物の記念の部分がささげられた後に、残りの部分をどうするか、幕内の指定されたところで、祭司が食するように教えられている。大切なのは、それらが聖なるものであるから、聖なるものとして扱われ、聖なる恵みに与るように語られている点であろう。キリスト者の聖さは、神の恵みである。それは、神が聖とするものに触れることで生じるのである。決して、聖くなろうと自ら努力する中に産み出されるものではない。ついでモーセが語られていることは、祭司は、祭司のための完全なささげものをすべきことである。祭司であるからといってその役得に浴するようであってはいけない。祭司も祭司の子らも、ささげるべきものをささげなくてはならないのである。聖さは、皆が平等に追求すべきものである。
24節からは、再び罪のきよめのささげ物の補足である。これもまた残りのものをどうするか、儀式の過程で偶発的に起こった出来事、つまりささげ物の血によって衣服を汚した場合にどうするか、などを扱っているが、興味深いことは、会見の天幕に持っていかれた罪のきよめのささげ物は食べてはならない、とされている点であろう。ある種のささげ物はその尊さの故に、聖別され、祭司も食べることができなかった。こうして「人の上に人を造らず」ただ神の栄光のみが仰がれるのである。教会で執り行われるすべては、神の栄光を仰ぐ、神のみが崇められるためであることを、しっかり覚えたいものである。

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