レビ記19章

19章 主の十のことば(十戒)

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。キリスト者は、生活の聖いさを求められるのですが、それは実際的には、様々な関係や課題を悩みぬくところにあるのかな、と思うところがあります。聖い生活をしていると思ったら、もう聖くない。そんなところがあるのではないでしょうか。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 種々の戒めが語られる。ざっと読んで、まとまりのない戒めのように思えるが、実は、ユダヤ人の目から見れば、これらの内容は十のことば(十戒)に対応するものである。つまり、4節は第一戒、第二戒、12節は第三戒、3節は、第四戒、第五戒、16節は第六戒、29節は、第七戒、11-16節は、第八戒、第九戒、18節は第十戒という具合に。これらは、十戒をさらに説明しているのである。
1.宗教上の義務(19:1-10節)
さて、「わたしはあなたがたの神、主である」(2節)が強調され、「地のならわしをまねてはいけない」から積極的に、「主であるわたしが聖であるから、あなた方も聖なる者とならなければならない」と言い換えられている。まねてはいけないのではない、自分自身から愚かさをそぎ落としていくだけではだめで、むしろ積極的に神の聖い価値に与っていく、神の聖い価値に生きていくことが勧められる。そこで十戒がさらに具体的、実践的に説明されている、と考えてよいだろう。
そこでまず3節「自分の母と父を恐れよ」と聖さは家庭から始まる。両親を敬うことは、神に対する愛の行為そのものである。そもそも聖さは、何よりも今ある関係性の中でこそ育まれるものである。聖さは、個人的、孤立的に確立されるものではない。今ある関係性と離れて確立されるものではない。神が与えられた関係(実際の家庭、神の家族としての教会という家庭)を大事にしながら、そこで悩み抜くことなくして自らの救いを完成することはない、ということだ。家族というのは、逃れられない関係であって、そのような関係を否定して、その人自身の本当の成熟も救いもない。
また主は「安息日を守らなければならない」と命じられる。今で言えば日曜ごとの礼拝を守っていくことである。その昔は、聖日厳守、聖日死守などという言い方がなされたが、今ではそんな言い方もあまり聞かれない。いつでも礼拝の時は与えられているからだ(ローマ12:1)。しかしながら、礼拝は神が召しだした時と場に赴くことが基本である。そして大切なのは、「安息日」を守るのではなく、主との「安息」を守るのである。その日に教会へ行かなくてはならない、というのではなくて、その日に、神とお会いし、神とのよき時を楽しむ、という心を持つことだ。神の臨在が確かであれば、聖日を守ることが本当の喜びとなる。そして私たちの聖さは、神を第一に拝するところに現されていく。
4節、偶像礼拝はいかなる形でも禁じられる。「偶像」はヘブル語でエリーリーム。「意味のないもの」「実態のないもの」を意味する。確かに、木や石で造られた偶像に実体はない。そうしたものを神として拝む虚しさは、よくよくわからなくてはならない。が、日本人には、わかりにくい部分である。
さらに、私たちの聖さは儀式的に適切であることをもって現される。定められた手順に従ってなされなければならず、そういう意味では、私たちの礼拝のありようも、どんなに豊かな内容を持つようであっても自己満足的であってはならず、神の定めのとおりに、神の期待されるとおりにささげられる必要がある。私たちは完全に聖書的であることをもって聖いとするのである。そして、神の民の貧しい者へ配慮する心も聖さの内である。困窮する人から搾取してはならず、人は必ず血の通う方法で取り扱われなければならない(9-10節)。
2.自分の隣人の愛(19:11-18節)
そういう意味では、家庭のみならず、あらゆる人間関係において、神の聖さは、考え抜かれなければならない(14-18節)。隣人は、愛すべきものであり、憎んだり、恨んだり、中傷したりしてはならないのである。愛は多くの罪を贖う、と言うが、今の隣人関係を否定して、私たちの幸せは決してありえない。偽りや欺き、しいたげやかすめとり、不親切、不正、中傷、憎しみがあるところに、神の聖さもない。ただ、そのように言われても、私たちの憎しみ、恨みは、無意識レベルの出来事である。大切なのは、キリストの救いにより頼むことであろう。キリストを信じるというのは、一度信じてそれでよしというのではなく、何度も悔い改め、罪赦され、新しくされる、繰り返しの歩みである。
3.様々な規定(19:19-27節)
最後に、諸習慣において(19-37節)神の聖さを意識していくべきことが教えられる。異種混合が禁じられる。また異教の習慣である血が完全に抜き取られていない食物、易、まじない、霊媒といった迷信的行為、入れ墨をしない。老人は大切にし、外国人には親切にし、商売は公正に行う。理性的に考えれば、当たり前に言われていながら出来ていない事柄である。神を信じる者は聖霊の助けによってこれらのことをなし、神の聖さを証しする。

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