民数記16章

16章 コラの反乱,神罰
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。出エジプト以来、イスラエルの民の間に起こった混乱は、混じってきていた者たちの不平不満に端を発するものでした。それが指導者層にまで拡大し、彼らは、同じ信仰、同じ集会ということを改めて確認していくのです。そして、彼らを治めるのは神であるという神の権威を認める仕組みを作ろうとしたのが本章の意味なのでしょう。彼らは、最も利用される祭壇の被金を作り、記念とし覚えられるようにしました。私たちの信仰にもそのような工夫が必要なのでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.コラの反抗
コラが、ルベンの子孫であるダタンとアビラム、さらにはオンと共謀して、アロンに立ち向かったという。コラの言い分は、イスラエルの全会衆が、聖なる者として召されているのに、アロンの家系が祭司職を独占するのはなぜか、である。コラは、もともとレビの子ケハテの子、イツハルの子である。アロンとモーセ、ミリヤムも実はこのケハテから出ており、ケハテの子、アムラムの子とされる。イスラエルがエジプトに入国してから出エジプトに至るまで430年であるから、年代的に彼らがケハテを祖父とするは、考えにくいのであるが、ルーツは同じである、ということになるだろう。こうしてコラもアロンも、同じレビの子ケハテの子であるのだが、コラには天幕の器具を運ぶ任務が与えられ、アロンの第三子エルアザルの監督のもとに置かれていたことになる。不満は、会衆の平等性を求めているようでありながら、実際には、アロンの指導権と祭司性に対する反感と、彼らにとって代わりたい、つまり祭司職の次の位に位置するよりも、祭司職そのものを得たい、という願いがあった。
2.ルベンの反逆
次にルベン族の反逆であるが、彼らは、ケハテ族と同じ幕屋の南側に位置して宿営していた。彼らは共謀しやすい位置にあった。しかし共謀はしていても、彼らの不満はまた別である。不満があることで便乗して徒党を組んだだけのことであって、彼らのそれは、指導者モーセを無能であると攻撃するものであった。乳と蜜の流れる地に住まわせると言いながら、一向にその約束を果たしていない。モーセはいかさまのペテン師であるというわけだ。
それぞれに違う不満がありながら、不満という一点で一致して教会が騒然としていく、ことはあることではないか。しかし、少なくともルベンの問題は別に考えなくてはならない。モーセは確かに神のことばのとおりに、イスラエルの民を導こうとしていたのであるが、それを妨げたのはイスラエルの民たちだからである。問題は、モーセではなく民にあった。
3.神の介入と裁き
コラたちの反逆は、いよいよ、頂点に達し、250人の指導者を巻き込んで、全会衆をモーセに逆らわせようとするに至った(10節)。しかし、そこに神が介入し、彼らの下の地面が割れ、コラとコラに属する全ての者を飲み込んだ、という。この物語を読むたびに思うことは、「神の介入」があることだ。信仰者には、色々と理不尽な思いをさせられることがある。しかし、神が介入し、神的な解決があることを、私たちは知らねばならない。神が味方であり、神に物事の裁きをゆだねる道があることをわからなくてはならない。神は私たち以上に、ご自身の権威を持って、私たちの正しさを証明し、正しい裁きを行ってくださるお方である。このことを忘れてはならないのである。人間的に自分の立場を弁護し、自分の権威を擁護しようとする時に、神の栄光は現されない。神がこの時に介入され、この神罰で死んだ者は約1万5千人であるという。コラたちの反逆的な思いは、彼らだけのものではなく、彼らと同じように思っていたものはそれほど多かったということなのだろう。
4.神の統治を忘れない
さて、彼らはこの出来事を記念として、記憶されるようにした。焼き殺された者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、記念としたという。祭壇の被金は、すでに作られていたので(出エジプト38:2)、これは最初に造られた被金に装飾的に付け加えられたのか、あるいは、最初のものと取り換えられたのか、よくわかないところである。しかしそれは、イスラエル人のためのしるしとなり記念となった。祭司ではない他の者が近づいて主の前に香をたく事がないようにという戒めを思い起こさせるものとなった。実物教育は、民数記において繰り返し取り上げられる。着物のふさ(15:38-41)、アロンの杖(17:10)もそうである。神の業を記憶し、これをとどめる工夫が、罪人の私たちには必要なのであろう。

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