マタイの福音書18章

第四の説教集となる部分である。第一は山上の説教(5-7章)、第二は弟子の心得(9:35-10:42)、第三は、神の国のたとえ話(13:1-52)、そしてここ18章は、イエスに従う弟子たちの人間関係についてその在り様を教えている。謙遜であること(1-14)、愛をもって真実を語ること(15-20)、そして赦すこと(21-35)である。

しかしながら、1節「そのとき」とあり、明らかに17章の宮の納入金のエピソードに続いた説話になっている。つまり人間の社会には主従関係があり、ピラミッド構造を無視することはできず、服従を余儀なくされる。だからこの世の社会では、偉大な者はその頂点に立つ者だと考えられている。そんな思考に慣れていると「天の御国では、いったいだれが一番偉いのか」と、教会でも物事を同じように考えるようになる。しかし、神を信じる者たちの発想は根本的に違う。席次や順位には拘らない幼子の様である者が偉い。自分の力も能力も過信せず、神の前に遜り、ただキリストを崇めていく者だけが、天の御国で尊ばれるのである。パウロは信仰の歩みの初期において自らを「使徒の中で最も小さな者」(1コリント15:9)と称したが、やがて「すべての聖徒たちの内で一番小さな私」(エペソ3:8)と称し、晩年には、「私は罪人のかしらです」(1テモテ1:15)と語った。信仰を持つことは、自分自身の人間としての現実に気づかされ、謙らされていく歩みである。神の御国で偉大なのは、そのように心の成熟した人間である。

そして本当に謙遜な人は、人を躓かせたりはしない。また神がそうであるように、小さい者、信仰の弱い弟子仲間に対する配慮を持つ。つまり成熟した弟子は、本当に一人一人のたましいの尊さを理解している人である。だから教会ではただ謙遜にキリストを仰いでいればよい、というのではなく、逆に、誰もが皆大事なのだから、どんな人も滅びることなく、最期まで天の御国へ至る巡礼の旅路が守られていくように心配りが必要なのだ。迷い出る人一人として出すことなく、皆で、手を携えて天の御国に到達する教会は、実に成熟した教会である。

これまでマタイが語ったことは「キリストをのみ崇め、信仰の兄弟を大事に思う」ことであった。続いてマタイは、はっきりと罪を犯したとわかり、皆の手を振りほどいて、教会から迷い出てしまう兄弟がいた場合、あるいは、皆がしょうがないと見捨てるような兄弟が出て来た場合、これをどうするか、について語る(15-20節)。

それはまず一対一で愛をもって真実を語り、ねんごろにいさめて自分の過ちに向かい合わせることである。そして、聞いてくれなかったら、証人を含めた複数の者たちでよく言って聞かせ、最後に教会で、つまり皆でわからせることである。しかしそれでもだめだったら、もはや「異邦人か取税人のようにせよ」(17節)という。つまり相手にせずともよい、ということだろう。もちろんこれはイエス特有の誇張法で、イエスにどんな人も見捨てる気持ちはないのである。だから18節以降の教えは、人をつなぐことの大事さを教えている。それは、「つなぐ」、「解く」の二者択一を勧めているのではなく、続いて祈る、つまりつなぐことに強調がある。どんな人も敵とみなすのではなくその者がつながれるために祈ることが、私たちの責務である。事実人を育てるというのはそういうことだろう。人を育て回復させることは、本当に手をかけ、心をかける業である。だから21節以下を見ると「兄弟に対して寛容である」ことが語られる。何度も、何度も赦し受け入れる深い愛なくして、人を養い育てることはできない。実際、教会は、赦されたという十字架の恵みに立つものである。あなたこそキリストです、と告白した変貌の出来事に建てられる教会は、イエスがモーセとエリヤとエルサレムでの最期のこと、つまり十字架による贖いを話し合った土台の上に建てられているのである。そして教会は赦された者の集まりとなっている。だから教会の本質的な性格は赦しそのものであり、赦しによって癒され、建てられ、また建て上げていくことを心得ている者の集まりなのである。23節以降の負債を持つしもべを赦した王のたとえ話は、それを補強するものである。

「何回赦すべきでしょうか」というペテロの質問にイエスは、七回を七十倍するまで、と答えた。ユダヤ人特有の慣用表現と考えれば、人を赦すならば、何回までということではなく「パーフェクト(35節:心から)」に赦しなさい、ということなのだろう。ペテロがその切れのいい赦しを心底経験するのは、十字架での裏切り以降のこと、復活のイエスの再召命の時のことである。考えてみれば、人間は、人を赦すことがなかなかできないものだ。しかし、一度自分の愚かさがわかり、徹底して謙遜になることができれば、赦すことがも学ぶようになる。赦せない自分を諦められるようになるのだし、神の業が自分の身に起こるようにと神に委ねることもわかるようになるだろう。そのように今日も主の十字架にあって赦されたという原点に立つことをまず教えられたい。

 

 

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