申命記8章

申命記8章 荒野での訓練と教訓
<要約>
皆さんおはようございます。私たちはある家庭に生まれさせられ、職場に置かれるものです。しかしそれらは全て神のご計画の中にあり、荒野を過ぎると思うことがあっても、神がそこで養われてきたことを覚えなくてはなりません。そして神はさらに先の祝福へ導こうとされるお方です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
(2)荒野での訓練と教訓
①神の真実(1-10節)
主はイスラエルの民に、ご自分の命令を守るべきこと、そこに約束の実現があること、さらに、荒野の40年の苦しみを覚えておくべきことを語る。過去の恵みを正しい意味においてすることの大切さがある。ただ単に古き良き時代を感傷的に回顧するのではなく、自動車のバックミラーを見るように正しく前進するための回顧の重要性がある。しかもここで回顧すべきは、神に世話をされた40年の荒野の生活である。出エジプトという素晴らしい出来事(5:15,6:21)ではなく、その後の荒野での苦難の旅路、思い返したくないような40年間であることに注意すべきだろう。過去の苦しみも、泣きたかったことも回顧する。それができる時、本当の恵みがなんであるかが分かる。
つまり、イスラエルを幸せにする目的をもって、実際に連れ出し(14節)、通らせ(15節)、食べさせ(16節)ながら約束の地へと導き入れようとした神の存在がある。神は、天高き玉座からただ私たちを見下ろし、正義の目を光らせているお方ではない。私たちに様々な人生を通らせながらも、その生活を守り、私たちを幸せへと導くためにこの地上の生涯に愛をもって積極的に関わってくださっている。私たちが、この神の配慮を感じることができなかったら、全く目に見えるこの地上の営みに一喜一憂して一生を終えてしまうことになるだろう。苦しい時は、なぜこうなったのか、と頭を抱えて悩むだけである。しかし、神の目的はその先にあり、それは、イスラエルにとって、エドム、アンモンを通らねばならなかったように、先に進むためにどうしても通らねばならぬ道であり、神のご計画の中にあるのだ、と信仰的に考えることができれば、そのような問題も小脇に抱えて進むことができる。神は、目的を持って、私たちをある家族に生まれさせ、学校に所属させ、仕事に就かせ、家族を与えられ、と人生を導かれるお方なのだ(5節)。荒野の40年間は決して無駄にはならないのであって、黙って、望みなきところで、望みを抱いて、黙々と神を信頼してついていくことが大切なのである。
②高慢と忘れることへの警告(11-20節)
かつてイザヤは語った。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(53:7)神のみこころに黙して従うイエスに、復活と昇天の勝利が帰せられたように、このままでは自分がダメになるかもしれないと思う状況にあっても、なおも「通らされる」神の時を待ち望んでいくことが大切なのである。自分から入るのではない、導き入れられるのだ。この違いは重要である。
 神は言う。「全行程を覚えていなければならない」神が通らされた荒野の生活の一部ではない。順調の時も逆境の時も全ての行程を、と言う。物事の一部だけを見ていたら、神の恵みがわからないでいるものだろう。しかし、私たちが導きだされた時から今に至るまでの流れを一つ一つ辿って行けば、神が私たちの着物を擦切らせず、また足をはれさせなかったことは思い出され、それらの苦しみ、試みが、ついに私たちを幸せにするためであったことを(16節)理解することができる。
大切なのは、神の祝福が確実である時に、その祝福に対する心構えをしっかりと持つことである。「あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである(17,18)。
神様を信じる自分の努力が報われたという考えではいけない(17節)。むしろ、命がけで生活に励み、汗を流して仕事に努力し、コツコツと勉学に励み、祝福され、恵まれ、成功しても、自慢しないで、自分ではなく、神がしてくださったのだ、と言い切る生き方。しながら、しない、という生き方。神がさせてくださったという生き方。これが主を心に据えた生き方である。
キリストに対する約束の故に、私たちの祝福は実現する。私たちの何かによってそれがもたらされたのではなく、主の約束、契約の故に、である。となれば、その祝福を神からのものとしてしっかり受け止めていく心構えが大切なのだ。主の祝福に預かった時には、いつでも主に対して感謝し、主の栄光をたたえなくてはいけない。主あっての私たちであることを、すべてが神にかかっていることを覚えて神に栄誉を帰す者でなくてはならない。そうでなければ、神はその祝福を取り消すこともできると警告されている(19、20節)。主の恩を忘れずに、しっかりと主の祝福を受けて歩む者でありたいものだ。主は「通らされる」神なのである。回想し、感謝し、帰神することを、私たちの常としよう。

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