申命記10章

申命記10章 十戒の再発行と心の割礼の勧め
<要約>
皆さんおはようございます。モーセの堪忍袋の緒は切れても、神のそれが切れることはない。神はモーセが叩き壊した十のことばの板を作り直されて、再度、イスラエルの民に再生のチャンスを与えます。そして以下に生きるべきかを語ると同時に、神にすがりなさい、と語るのです。主にすがりましょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
(3)十戒の再発行
①契約の更新(1-11節)
モーセの回想が続く。エジプト脱出後、モーセがシナイ山に登っている間、イスラエルの民は、金の子牛を崇拝する大きな罪を犯した。神に与えられた十戒の板は、モーセの怒りによって粉々に砕かれ失われてしまったが、神はこれをもう一度書き直してイスラエルの民に与えてくださった、と回想する。
イスラエルは神を裏切り続けてきた。神と人の仲介者であったモーセには、我慢のならないことであった。しかし、神は忍耐強く彼らを赦された。彼らはうなじの固い、強情な民であったし、モーセが捨てたものを、どうして神は去られなかったのか。神はそんなお人よしなのか。そうではなく、神はモーセに優ってイスラエルを愛し、契約に忠実であろうとされたのである。いかに民が裏切ろうとも、神は彼らの先祖たちと結ばれた契約を破棄することをせず、忠実に守り続けてこられたのである。この神の誠実さとあわれみなくして私たちに希望はない。私たちは迷いやすく、逸脱しやすい。しかし、神が永遠に変わらぬ愛を持って、私たちに接し、ご自分の約束を守り続けてくださるからこそ(今日には聖餐の契約によって)、私たちは、神の祝福の中に歩み続けることができる。
6節の挿入的記述は、いささか混乱するところであるが、基本的にイスラエルの民の旅程と、その間に起こったことが記されている。それは、急に話題を変えたようでもあるが、「主の契約の箱」に関連して、この箱を運ぶ任務を持っていたレビ部族について述べるための布石となっている箇所である。ただ、混乱するのは、地名の表記であり、民数記33:31-33といささか違う点があるところだろう。「ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った」(6節)とあるが、民数記33:30-31では、「モセロテ(モセラ)から旅立ってベネ・ヤアカンに宿営し」た、と順序が逆になっている。また、「アロンはそこ(モセラ)で死に、そこに葬られた」とあるが、民数記20:28と33:38では、ホル山(の頂)で死んだとされている。モセラを葬列の出発地とし、ホル山付近を埋葬した地と考えることもできるが、旅程についてはいくつかの説があり、正確なところはわかっていない。
ともあれ、旅程(6-7節)とともに、レビ族の三つの任務が語られ①主の契約の箱を運び、②主の前に立って仕え、③御名によって祝福する(8-9節)、そして、彼らが民の先頭に立って進むことが勧められる(10-11節)。じっと我慢の子ではないが、少々困難があっても、与えられている時を大切にし、コツコツと物事を継続していく忍耐強さを現代は必要としている。何か邪魔や不都合が起こると中断し、やめてしまうのではなく、コツコツ祈りながら課題と取り組み、生活を進めていくことが求められている。そのように先頭を走る者があってこそ、何事も、進んで行くものなのだ。モーセは、「占領することができる」と主の約束を繰り返した。
②主が求めておられること:心の割礼(12-22節)
12節からは献身の招きとなっている。これは、11章の32節まで続いているが、5章から始まる神の御教えの総括、および申命記の中心主題の総括であるともされている。それは、神が私たちに求めておられること、つまり、主を畏れ、主の道に歩み、心を尽くし、精神を尽くして主を愛し、主に仕えることを教えるもので、以降、申命記の中で、繰り返し命じられている(4:29、11:13、13:3、26:16、30:2、6、10)。 
しっかりと心に留めたいところだろう。というのも、私たちは、確かに「うなじの固い民」であって、私たちの心はいつでも、神よりも、神でないものを求め、霊性よりも世俗性に傾きやすいからだ。悪に走る深い罪の衝動性は否定することのできないものである。私たちは、本当の幸せのために与えられている主の命令を束縛と感じてしまうところがある。実際私たちが、何か信仰や教会のことで束縛を感じているのは、神に対して心を閉ざしている時だ。自分の内に罪を赦し、抗しきれない悪の誘いの中で、神に背を向けている時である。向きを変えればよいものの、私たちにはそれができない。そこで私たちは自分ではなく、他人を責め、教会を責めてしまうこともある。問題は、私たち自身にある。自分のこころの深みの問題にこそ気付かなくてはならない。身体ではない、心の包皮こそ切り捨てなくてはならない(16節)。そういう現実をわかって、そういう現実から、救われることを願えということだろう。本当に信仰者として生きることは、戦いである。自らの罪性をはっきり見据えて、自らの罪と戦っていく、他人の罪と戦うのではなく、自らの罪と向かい合って自らの罪に勝利していくのである。
17節以降は、そのように心の割礼を施した者の生き方の姿勢を語る。神がえこひいきをせず、賄賂を取らず、社会的弱者を守り、愛されているように、異教の民、世俗の社会で、神の民として実生活をとおし、証を立てることを求めている。つまり心の割礼によって実を生み出す歩みをするように語っているのである。
しかしそれは、自分の努力ではない。神は命じられて、後は自分で一人で立っていけと言っているのではない。20節、「主にすがり」とある。私たちは無力さの中にあるからこそ、神を信じたのである。だから主にすがり続けて、主の恵みの業として、私たちの人生に主の業が起こってくることを期待しなければならないのである。だから一方で、神の戒めに生きることは、負うべき重荷ではなく、私たちの幸せのために与えられた神の恵みである。私たちは神に命じられるが、神の助けによって勝利すればよいからだ。自らの罪とにらめっこしてはっけよい残ったと勝負するのではなく(それでは、ますます罪に囚われ、打ちのめされるだけである)、神を見上げて、神にすがり、神の格別なるあわれみによって私たちの内に主の業が起こることを期待し続け、ただ淡々と主に仕えていくだけでよいのだ。70人でエジプトへ下った私たちが、「空の星のように多くなる」神の恵みの業が着実に日々築かれていることを信頼し続けることである。時が来れば、それは誰の目にも明らかになるのである。本当に必要とされているのは、心の割礼、つまり神に対する心の方向転換、神への深い信頼と献身である。それは、私たちを変え、私たちを良きに建てあげていくのである。

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