申命記12章

申命記12章 申命記法典:礼拝に関する規定
<要約>
皆さんおはようございます。本日から一般に申命記法典と呼ばれる、申命記の中でも最も根幹となる部分に入っていきます。まずその初めに、自己流ではなく、聖書流に、つまり神に教えられる生活が勧められて行きます。約束の地は、クリーンな世界ではなく、異教的な習慣の蔓延した世界でした。私たちも神にあって新生しながらも、異教的な環境の中で神の民として生きるように召されているのです。積極的に神のいのちに生きる歩みをさせていただきましょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.基本的なみ教えの適用(12:1-26:19)
1)礼拝についての諸規定(12:1-17:7)
 昨日、11章の終わりは、12章の序論となっていることを語ったが、ここには興味深い文学的なつながりがあるとされる。つまり、11:26-32は、①祝福と呪い(26-28節)、②ゲリジムとエバル(29-30節)、戒めに従うようにという命令(31-32節)となっているのだが、これは、続く12-28章に、①命令(12:1-26:16)、②ゲリジムとエバル(27:1-8,11-26)、③祝福と呪い(28:1-68)と逆順にキアスムス(交差配列法)という修辞的構造となっていることが指摘されている。ともあれ12章からは、一般に「申命記法典」と呼ばれる内容で、12-15章にわたって儀式律法を、16章以下は市民律法を扱っている。それは、5-11章で大まかに描かれた律法の精神の詳細な適用、という風に考えてよい。
そして12章は、礼拝に関する規定であるが、申命記法典全体の序論となっている部分である(1-28節)。
(1)異教の礼拝を取り除く(12:1-4) 
最初に、イスラエルの民は、所有する地において、異教的な礼拝の対象と場所を破壊するように命じられる。彼らは約束の地カナンに入ると、まず自分たちの信仰とは本質的に異なる多神教に直面しなくてはならなかった。山、丘、青木の下など、様々な偶像礼拝の場所が多くあった状況について、それらを取り去らねばならないと語る。というのもそれらは、後々イスラエルの民を宗教的に誘惑するものとなったからだ。イスラエルの民が礼拝し仕えるのは、ただエジプトから彼らを救い出した主のみであり、礼拝する方法も、主が命じる方法ですべきである、と。唯一まことの神との正しい関係こそ、新しい国家の歩みの基礎とされるのである。
 実際に、イスラエルの歴史を見ると、その命令は必ずしも徹底されなかったので、イスラエルには異教的な礼拝が繰り返し出現し、アサ(1列王15:11-14)、ヒゼキヤ(2列王18:3-4)、ヨシヤ(2列王23:4-25)による宗教改革が行われている。神の命令に対する不従順が、結局、彼らの信仰の歩みを妨げ、躓かせ、神を信じる等無意味で愚かしいとすら思わせる異教的な圧力に彼らを晒すことになったのである。そして、宗教的逸脱と回復が繰り返される歴史となった。神の民として、世俗化にのみ込まれてしまうのではなく、唯一まことの神との正しい関係を持ち続け、世に対して、生ける神を証する、光と輝く国家であることが求められている。
(2)主の定め(場所、物、方法)に従う礼拝(12:5-19)
5-7節は、どこで、どのように、主を礼拝すべきかを教えている。神を礼拝するためには、自分の正しいと見えることに従って(8)、勝手気ままな場所(13)で礼拝するのではなく、主が正しいと見られること(25)を行うことが求められている。神の方法に教えられ、それに従わなければならない。神の実在とその人格的存在を覚えるなら、やはり、神のみこころを差し置いて、自己流の礼拝をささげることはできない。自己流から聖書流に自分自身のあり方を変えていく、それが信仰の成長、成熟である。
 当時礼拝は、会見の天幕でなされていた。会見の天幕を中心に、部族は整然と配置され生活し、ささげものは必ず会見の天幕へと携えられた。また約束のカナンの地に入ってからは、異教の祭壇をそのまま流用することはなく、新しく神殿を設け、そこでささげものはささげられた。つまり選ばれた場所、神が指定された場所で礼拝は行われた。そのような意味では、私たちの礼拝も選ばれた場所、定められた教会ですべきものである。
 また、選ばれた礼拝の場所に携えて行かなければならないささげ物についても定められている。全焼のいけにえ、ほかのいけにえ、10分の1、奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、牛や羊の初子というように(6)。それらを主の選ばれた場所に携えて行くこと、そして家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張る(7、11-12)ように命じられている。つまり、主の前で食べ、手のわざを喜び楽しみなさいと言う。主の祝福を覚えて、家族で感謝せよという。聖徒の交わりは、神様を中心にした素晴らしく楽しく喜ばしい時を持っている。堅苦しい、真面目腐った、暗い、生き方でなく、明るく、健康的な力強い歩みがある。確かに礼拝もまた神を喜ぶ時で、単なる宗教儀式ではない。それは一週の歩みの中で主の祝福と安息を喜び楽しむ時なのである。
2)生活のわな(12:20-32)
次に異教的環境の中で、どのように日常の生活を進めるべきかが語られる。所有地に入り、安住するようになった時に、「彼らに倣って、罠に陥らないようにしなさい(30節)」と命じられている。しかし、後に彼らは、自分たちの息子、娘を火で焼き、モレク(レビ18:21、20:2、エレミヤ32:35)に、またバアルにささげる過ちを犯してしまった(エレミヤ19:5)。
イスラエルの民は、新しい地に入り、その新しい生活様式を一つ一つ教えられている。しかしその教えから離れてしまっている。決心をして信仰を持ち、新しい信仰の歩みをスタートさせたのなら、まず自分の良いと思うところではなく、聖書によく学んで教えられていくことが大切だ。そして聖書の教えに堅く立つことを絶えず心がけることだ。
 というのも、私たちにとって教会生活だけが全てなのではない。働くこと、企業の中での生活、子どもを養育すること、親戚や友人、そして近所づきあいをする生活、学生にとっては学生生活、と人の生活には様々な諸相があり、その生活が本当に力あるもの、意義あるもの、目的と生きがいを感じるものとなるのは、礼拝という、神との関係を正しくする行為があってこそ、である。そうでなく、神を軸にするのではなく、神を抜きにする生活に堕してしまえば、結局、これまでの異教的な古い生活習慣をそのまま引きずる生活か、気づいたらまた元のその古い生活習慣に逆戻りしているかのいずれかになってしまうだろう。神のいのちにあって新しく生まれたのであるから、新しいまことの神を礼拝し、その神の価値観に倣う新しい生活習慣を建て上げていくように心がけることだ。そこからぶれない歩みをさせていただこう。

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