申命記30章

申命記30章
2.命と死の選択(30章)
皆さんおはようございます。Merry Christmas!主のご降誕を感謝します。皆さんの上によき主の平安がありますように。継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むごとに、不思議にも自然と養われていくものがあるものです。今日は、主に積極的に従うこと、死に至る人生よりも、命に至る人生を選び取っていくことを教えています。今日も、主の子の勧めに応答して、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

30章の勧めが語られたのは、イスラエルの民が、未だ約束の地、カナンに入っていなかった時、これから入って行こうとしている時であった。神はイスラエルの民に、カナンの地に入ってから後、神を忘れ、規定を守らず、心をカナンの宗教や、世俗的なことに引かれるなら、必ず災いがくると告げられた。しかし、まだ先のことについて、彼らはその警告がどのようなものなのか、全く考えも及ばなかったようである。ちょうど、かつて日本が戦争に負けることなど考えられずに戦争に突入したのとよく似ている。そして神は全てのことをご存じで、イスラエルが、カナンの宗教に誘惑され、神から離れてしまうことすらご存じなので、それを予め預言として啓示されたのである。

1)悔い改めの勧め(30:1-10)
 だから神は、イスラエルが命ではなく死を選択し、神に背を背ける未来を想定して、そこからの回復を語り始める。神はあわれみ深い。私たちが悔い改めるならば、神は赦し「天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す」(4節)と言う。つまり、神は私たちを滅びに放置されるのではなく、回復させてくださる。
 それは事実イスラエルの歴史に起こったことであった。り、確認されることである。イスラエルは、分裂王国時代以降、BC722年には北イスラエルがアッシリヤに捕囚として連れ去られ、BC586年には南ユダがバビロンに捕囚として連れ去られ、ある意味で天の果てに追いやられてしまった。しかし、ペルシアの時代に、そこから再び連れ戻され、回復させられている。
神の恵みは決して取り去られることがない。たとえ、捕虜となって遠い異国の地に連れ去られることがあっても、神の戒めを守り、心を尽くし、精神を尽くして神に聞き従うなら(10節)、神はあわれんでくださり、再び集め、栄えさせてくださる。
世の中の懲らしめは、徹底して人を叩きつぶすことにあるかもしれないが、神の懲らしめはそうではない。神は、私たちが悔い改める時に、私たちを心に留められる。そして、立ち返るなら、集め、連れ戻し、所有を回復させ、栄えさせ、数を多くされることを約束している。さらに、神は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される、と約束される。
2)命か死かの選択(30:15-20)
神の前に悔い改め立ち返る、そして神のことばを守って行き、神に望みを置く、神のことばは、理解するのに難しすぎることはない(11節)。また私たちの生活の現実から遠くかけ離れたものでもない。まさに、私たちが今を生きる術を与え、今幸せになるための諭しを与えるものだ。そして神の御教えが私たちの「ごく身近にあり、口にあり、心にある」現実を私たちは知らなくてはならない。
モーセの時代、神のみことばは「みおしえの書」としてごく身近に置かれ、イスラエルの民はそれを唱え口ずさむように教えられた。神のみことばは抽象的なものではない。ある日天から下されるものでもない。私たちの時代にあってそれは、既に聖書という形で手にできるものであって、現実の生活に照らしながら、読み味わい、口にし、心に思いめぐらすことのできるものだ。エレミヤは、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」(31:33)と預言した。
大切なことは、与えられている神のことばを大切にし、そのみことばに従うことだろう。教会で、説教を聞けばそれでよし、ではない。まさに今を生きる神のことばとして、自分の生活に刷り込み、自分を建てあげるようにして読むべきものである。
だから神は言う。「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く」(15節)。神はよきものを約束される。しかし、災いもしかりだ。いのちか死か、あるいは幸せか災いか、という選択が求められている。つまり信仰は、強制ではなく、自主的な決断であり、しかも、いのちか死かの決断であり、幸福か災いかの決断なのであり、第三の道はない。あれかこれかなのである。そして、神が心から願っておられるのは、「あなたはいのちを選びなさい」そこにあなたの幸せがあるから、ということなのである。たとえ、嫌なこと、苦しいことが、今私に、そしてあなたに、起こったとしても、それに負けることなく、導いてくださる神を信じ、教会生活に、信仰生活に励み、希望を抱いて、自分と子孫のために「いのちの道」を選びたい。私たち一人一人が、手にしている聖書そのものに目を向けること、聖書のことばを大事にし、それをよく味わい、それに従うこと、そこに心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くしていくこと、そこに私たちの祝福もある。神の祝福を積極的にいただく者でありたいものだ。

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