ヨシュア記9章

ヨシュア記9章 ギブオン人の欺き
<要約>
おはようございます。約束の地カナンの征服には、様々な脱線のエピソードがあります。アイでの敗退、そして本章のギブオン人に騙された契約、などなど。彼らの戦いは最初から躓きっぱなしであったと言うべきでしょう。自分の人生も同じだと思う人はいるかもしれません。クリスチャンになったというのに、全くもって、スムーズに物事が進まない。けれども、失敗に次ぐ祝福というものはあるものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨシュアの失敗
 悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを探し、襲い掛かってくることもあるが、蛇のように、惑わすものとして、ささやきかけ、近づいてくることもある。ギブオンの住民は、これまでイスラエルの人たちに神がなされた業に心がしなえて、自分たちが滅ぼされることのないように、と一計を案じた。わざわざ遠い国からやってきたかのように演じ、ヨシュアと盟約を結ぼうとしたのである。彼らがヒビ人で、つまり、遠い国ではなく、近くに住む住民であったことは、容易に見破られるようなことであった(7節)が、ヨシュアは、彼らの策略に見事に騙されてしまう。
なぜか。疑わしき中にあって、人々が「主の指示を求めなかった」(14節)と聖書は特記する。ヨシュアを初めイスラエルの民も、この件について、神との祈りの中で判断しようとはしなかった。まさに思慮の欠いたその場の判断で事を決めてしまったということだろう。これはヨシュアにとっては失敗であった。しかし、ヨシュアはその失敗を覚えながらも、あくまでも、神の前でなされた盟約を重んじていく。
ギブオン人は、イスラエルの奴隷としての立場を受け入れていく。彼らは、イスラエル人のために「薪を割る者、水を汲む者となった」(21節)。しかしこの仕事は、イスラエルの中に住む異邦人が行うよう求められている仕事である(申命29:11)。本来は滅ぼされるはずの存在であったが、イスラエルの神、主の噂を認め、主の前に遜ったギブオン人は、ヨシュアの失敗によって逆に救われていく。これは人間的な策略の成功のようでもあるが、神がヨシュアの失敗を用いて、ご自身を認める者になしてくださった恵みの業と理解すべきものだろう。ルカ16:1-9にある、不正な管理人の策略を誉めたイエスの説話を思い起こすところである。
2.失敗に次ぐ祝福
一方、失敗は失敗である。ヨシュアは明らかに失敗したことを悟らされている。しかし、大切なのは、その後のことである。失敗によっていたずらに自分を責めたり、嘆いたりするために時間を費やすことほど愚かなことはない。また、失敗を何とか繕おうと、理不尽な物事の収め方をするのも、人間としてあってはならないことだろう。いかにそのような状況を乗り越えるべきか。大切なのは、神がギブオン人になさったように、神は憐れみを求める者を拒まれることはないことだろう。だから失敗を素直に受入れ、そこで神の憐れみを願い、人間として正しい歩みを選択すればよい。
ヒビ人と盟約を結んだ以上は、その約束を守っていく。事実、この約束は、イスラエルの歴史の中で、きわめて固く守られていく。後に、サウルがこの地域で、ギブオンの住民を虐殺したことで、サウルの子孫のうち、7人が処刑される(2サムエル記21章)ということがあったように。
人生のどこかで、思慮もなく愚かな約束事をしてしまった、あるいは選択をしてしまった、と思わされるようなことはあるものだろう。しかしそこで後ろ向きになって、自分の失敗を責めたり、相手を恨んだりしてはならない。自分の未熟さを素直に受け入れ、神の最善の導きを求めることが大切である。むしろ、神はそのことを、思わぬ祝福に変えてくださる。
その後ギブオンの住民は、イスラエルの忠実な民となり、捕囚の運命を一緒にたどり、エルサレム城壁の再建にも協力している。排除すべきと見なされた民が、最も近き助け手となった。失敗を犯すことがあったら、その先を考えよう。その失敗の上に、さらに新しい歩みを神が得させてくださると信じよう。神は、祝福の神である。

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