マタイの福音書23章

すでに21-22章においてイエスは律法学者やパリサイ人たちと対決姿勢を示していたが、ここ23章ではいよいよ彼らの腐敗と欠点を容赦なく攻撃している。これは、24-25章の、エルサレムのさばきの宣告へとつながる、重要な局面である。ただ、これらのことばは直接的には弟子に向けて語られている。つまりイエスは、弟子たちを正しい方向に導くことを意識して語られた、ということである。

イエスは言う。「言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(3節)。律法学者の問題は、口先だけ、行動が聖い内面の現われではなかった点である。しかし注意すべきは、彼らは何もしていなかったわけではないことである。30年も前になるが、新しいパウロ理解という考え方が日本にも紹介されて、1世紀のユダヤ教についての理解が深まっている。当時のユダヤ教は、「律法」よりも恵みの「契約」を中心とする宗教であり、イエスが攻撃されたのは、聖書に基づく律法主義というよりも、聖書に関連して先祖から言い伝えられた戒めを形式的に守る実践のことであった、と考えられるようになった。つまりここで批判されているのは、「聖書と食い違った実践」のことである。それは、日本のクリスチャンの現実についても言えるのかもしれない。どうも聖書が言っていることではなく、聖書が言っていると思いこんでいることを頑なに守る、窒息しそうなクリスチャンがいるのではないか。信仰を持ったらまずすべきことは、生来に築いて来た自身の価値観と思いこんでいるかもしれないキリスト教理解の検証である。そこから解放されるだけで、自由を得るキリスト者も多いことだろう。パリサイ人は、他人に「重い荷物」を負わせている、とイエスは言う。確かに、旧約は恵みを語っているが、彼らはそれを語らなかったのだ。神の恵みは新約においていよいよ豊かにされている。

クリスチャンにとって最も大切なのは、体裁が整うよりも、神の力によって価値観や考え方が変えられて、心が成熟していくことである。自分の成熟以上に自分自身を見せかけようとする偽善から解放されながら、着実に自分を成長させていくことだ。それは、宴会の上座や会堂の上席などを求める、あるいは人から先生と呼ばれたがる肉の性質から解放されることだろう。また、自分が出来ていない、つまり、キリストの十字架にある罪の赦しと聖霊の助けを最も必要としている者であることを自覚し、ますますキリストにより頼むことだろう。「経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたり」(5節)といった外面的なことではなくて、真に律法の深い責めを心に受け、キリストを避け所として成熟を目指しているかである。「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば外側もきよくなります」(26節)という内面の成熟を重視するかにある。

12節までは「群衆と弟子たち」に向けて語られるが、13節からは直接「律法学者とパリサイ人たち」に向けて語られ、文体も変化し、連続して「わざわいだ」で始まる七つの非難を向けておられる。言いたいことは、彼らは、いかに律法の保護者であり解釈者であるという役目を果たしていないかである。彼らの宗教的実践にしろ、教えにしろ、神を喜ばせたいという彼らの目的を達成するものではない。彼らはただ個人的な信仰生活に失敗していた、というのではなく、イスラエルの指導者として責任を果たすことに失敗しているのである。だからイエスのことばも激しい。先にイエスは、山上の説教において「幸いな者」がどのような者であるかを語ったが(5:3-12)、ここでは「わざわいなる者」がどのような者であるかを語っている。彼らの問題は、内面において神と向き合っていなかったことにある。だから彼らは神の言葉に応じることができず、神の預言者、知者、律法学者を拒絶し、迫害し、打ち殺したのである。その報いは、彼らが受けなければならなかった。36節、「この時代」は、直接的には、エルサレム崩壊、70年のローマ帝国によるエルサレム占領の出来事について語っているのだろう。しかしこれ以降は、24章のより明確な裁きのことばの橋渡しとなっており、私たちの時代を含めた終末預言としても受け止められる。

神は、私たちの心を求めておられる。行いではない。神を愛し、神に献身した心を求めておられるのである。行いはそれに伴うものだろう。確かに、心が貧しい者、心が破たんし、神にのみ望みを抱き、神に期待して歩む者にこそ、主の恵みも大きいのである。

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