ヨシュア記15章

ヨシュア記15章 ユダ族の占領地
<要約>
おはようございます。ユダ族の占領地についての記録です。その中に、カレブの娘アクサのエピソードが挿入されています。彼女は、父親に相続を求め、二倍のもの、上の泉と下の泉を与えられているのです。私たちもまた霊の父である神に相続を求めるべきでしょう。それはキリスト者が世の光として輝くためです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ユダ族の相続
14章に続き、ユダ族の相続地の境界(15:1-12)と、境界に属する、占領した町々(15:20-62)が記される。南部の荒野から始まり、西、東、北、それぞれの境界が細かに記されるが、広大な地である。12部族の中では、東ヨルダンと西ヨルダンの二カ所を相続したマナセに次ぐ大きさである。占領した町の数も約110以上である。カレブとカレブの協力者であるユダ部族が、主に従い通した結果がそこに表わされているのだろう。
キルヤテ・セフェルを打つ者には、自分の娘を妻とするということばに、カレブの兄弟オテニエルが立ち上がったとされる。そのようにして、カレブのみならず、カレブに協力する者がこれを手にしていったのだろう。
そういう意味では、教会全体が一丸となって、神の約束を信じ、神の約束に立って、教会を建て上げる戦いを一緒に戦い抜いていく心が必要である。牧師だけではなく、信徒も心を一つにして神が与えられた教区を自分たちのものとしていく。そうであればこそ、教会が建てあがって行く。教会の成長は、教会全体の戦いである。
2.アクサの上の泉、下の泉 
ところで、ここに挿入されたカレブの娘アクサの物語に注目したい。このエピソードは士師記1章に再録されている。そして士師記3章には、オテニエルは、ヨシュアの死後、第一の士師としてイスラエルを救出し、約束の地カナンでの40年間の平和を導いた人物として記録されている(8-11節)。
このオテニエル、アクサを妻としてもらうことになったが、アクサは、オテニエルに、自分の父に畑を求めるように、しきりに促している。古代イスラエルにおいては、妻となる女性が持参金を求める習慣があったので、それは自然な要求であった。ただ、カレブの娘アクサの本当の願いは、畑地ではなく泉であった。カレブやユダ部族が相続した土地は、広大とはいえ、ユダの荒野と呼ばれたところである。そこは今でも、荒涼とした岩だらけの荒れ地である。その地で生き延びるのみならず繁栄するためには、泉が必要とされたのだ。カレブもそのことは重々承知だったのだろう。カレブは、娘の要求に対して、上の泉と下の泉、つまり倍の持参金を与えている。カレブは、信仰の士師オテニエルに相応しい、倍の祝福を与えることをよしとしたのである。それは、主に従う者への象徴的なエピソードである。
というのも私たちの人生は荒野に、何事かを建てあげるようなものかもしれない。しかし神はこれからの繁栄のために、と上の泉と下の泉を下さる。それは具体的にイエスご自身である。イエスは「私を信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:38)と言った。今の、混とんとした世の中において、最も宝とされるものは、命の泉のごとくと称される人だろう。つまり、慰めの人、光の人、愛の人、塩気のある人、神は、私たちを世の上の泉、下の泉とされるのである。
3.ユダの町のリスト
20節からは、ユダの町のリストになっている。全部で11の地区に分かれている。第一の地区はベエル・シェバを中心とした南部の広い区域で、36の町が含まれる(21-32節)。32節には29の町というが実際にあげられているのは36である。新改訳第三版の聖書では覧外注でそのあたりの矛盾を解こうとしているが、結局よくわからない(新改訳2017では削除されている)。つまりヘブル語聖書のギリシャ語訳(七十人訳)では、これらの町々の中からハツォル(23節)、ハツォル・ハダタ(25節)、へシュモン(27節)、アイン(32節)が欠落しており、イテナンとジフ(23、24節)をイテナンジフと読んでいる。またビズヨテヤ(28節)を「それらの村々と農地」と読み替えるので、全部で6つ町が減って30になる。七十人訳で読むと数が32節の合計に大分近いのであるが、いずれにしても、聖書本文が不完全な部分であることを思わされるところである。
第二地区から第五地区までは低地の町々と村々で、第二地区(33-36節)でも、14の町と言われるが実際には15の町の名があげられている。七十人訳では、ゲデロタイム(36節)が、牧場と訳されて数が調整されているが、新改訳にはその説明がない。第三地区は37-41節、第四地区は42-44節、第五地区は45-47節となる。第六地区(48-51節)からが山地の町々とされ、第七地区(52-54節)、第八地区(55-57節)、第九地区(58-59節)、第十地区(60節)そして最後の第十一地区は荒野(61-62節)となる。
こうして見るとユダ族はかなり戦略的に占領地を捉え、これを征服していったと思わされるとろである。私たちの宣教は、教会にいかにして人を引き込むかを考えやすいが、彼らは出て行ってこれを占領することに専心した。宣教は外に出て行く戦いである。それは、協力であると同時に戦略による。神が私たちに協力を得させ、戦略を明らかにしてくださるように祈りたいところであるし、何よりも、それは、自らが散らされた場で、世の人々の泉として喜ばれることにある。心に抱くイエスを世に指し示し、その恵みの泉に与らせていく戦いである。

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