士師記1章

士師記1章 ユダの征服
<要約>
おはようございます。信仰を持つことは、神を認め、神との関りの中で生きることに他なりませんが、同時にそれは、新しい神の価値、神の倫理に生きることでもあるのです。そういう意味で、私たちは信仰を持つ前に身に着けてきた価値をよくよく見直し、それを改めていく、正していくことが必要なものでしょう。この世の倫理、この世の考え方に流されず、それらを超えた聖書の価値考え方に立つことができるように、祈り歩ませていただきたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.士師記の背景
 士師記は、モーセ、ヨシュアに継いでイスラエル全体を指導する指導者なき時代の物語である。モーセ、ヨシュアの時代、神は彼らを通してイスラエル全体を導かれた。しかし、その後、王制が確立するまでは、イスラエルには無秩序な状況が続く。神はそのような状況の中で、「士師」、もしくは「さばきつかさ」と呼ばれる指導者を召しだし、聖霊を注ぎ、イスラエルの各部族を個別に導かれた。
それは、今日の状況と非常によく似ている。神の民であるキリスト者は、全体として、勝利の歩みをしているわけではない。むしろ、ここかしこで、それぞれが個別に小さな勝利を収めているだけで、全体として勝利をしているのではない。各個教会が個別に自分たちの所有地のために戦う。あるいは同盟を組んでも、全体としてはもはや統一されることのない時代である。ただそれは、終末的に統一されるものなのかもしれない。主の再臨により、主の下にやがて一つにされ、皆で勝利の教会となることを望むところである。
2.イスラエルの征服の状況
さて1章は、ユダとシメオンの同盟軍による南カナンの征服(2-21節)、ヨセフの一族によるべテル奪回(22-26節)、そして中部北部に定住した部族がカナン人を追い払い得なかった村落のリスト(27-36節)となっている。2章以降は具体的な13人の士師たちによって、神に背くイスラエルが回復されていくエピソードである。
 最初にアドニ・ベゼクのエピソード。ベゼクの王は捕らえられて手足の親指を切り取られた。親指が切り取られるとつまみ動作が難しくなる。武器はまず使えない。食事を始め、日常生活も極めて不自由になる。このような仕打ちには嫌悪を感じるが、ベゼクは言う。「神は私がしたとおりのことを、私に報いられた」(7節)。人はどこかでその罪深い行為を清算させられるものなのだろう。しかし、当時ではよく当たり前に行われた仕打ちであっても、イスラエルの民が真似たところに、イスラエルの堕落があったのではないか。世俗社会の中では許容され、正当化されることが、全て教会の中でも許容できるわけではない。教会には教会の倫理があり、価値がある。だが、世俗の価値をそのまま教会に持ち込んで、世俗社会の延長になっている教会も多いことだろう。どんな価値を教会に持ち込んでいるのか、注意したいところである。エジプトから脱出した神の民は、律法を与えられ、荒野に隔離され40年の教育を受け、当時の偶像崇拝と物質主義に満ちた異邦社会とは区別された価値と倫理に生きることを求められた。罪の世から救い出された私たちも同じである。イエスが指示されたのは私たちが十字架愛に生きる共同体となることで、神のしもべはこの世の倫理を超えた、神の倫理に生きることが必要なのである。
3.士師の時代の始まり
 27節以降は、イスラエルの民が、追い払わなかったカナン人のリストになる。後に彼らの足かせとなった存在である。彼らは、モーセ(申命7章)とヨシュア(ヨシュア23章)の警告を聞き入れなかった。「完全に追い払うことがなかった」が繰り返される。それが士師記の種々のエピソードの始まりとなる。「歴史から学ぶことは、人類が歴史に学ばないことである」と言われる。「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(ヨシュア23:11)とヨシュアは警告したが、彼らは、妥協の中に生きた。かつてであったら戦車を持つ敵であれ、城壁を持つ敵であれ、立ち向かっていったことだろう。しかし今や彼らは共存の道を選んだ。だが、真に、自らの霊性を守り築き上げる歩みは妥協の中には生まれない。今日、主が、私たちに気づくべきことを気づかせてくださるように。この世の倫理、この世の考え方に流されず、それらを超えた聖書の考え方や価値に立つことができるように、祈り歩ませていただこう。

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