士師記3章

士師記3章 士師オテニエル、エフデ、シャムガル
<要約>
おはようございます。何でも容易く物事が進んで欲しいと思うことはあるものでしょう。しかし、試練の連続ということもあります。けれどもそれも神のなさることであれば意味のあること、イスラエルの子らにおいては、戦い方を学ぶという意味がありました。全て無意味な苦しみはありません。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.次世代への試練
士師オテニエル、エフデ、シャムガルの活躍が記される。「これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである」(2節)と言う。出エジプト後、新しい世代によって獲得された約束の地カナンは、さらに、次の世代の所有とされるようになっていた。神はそのさらに新しい世代のために、異邦の民を残しておられたという。そして、「まだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせよう、とした」という。
確かに、神の御心に従って、神の御心にかなう歩みをするための戦いがある。それを知らずに育った世代がある。今あるものは当たり前ではない、すべては戦い勝ち取られるものであるし、祈り、神を信頼しつつ苦労して手にすべきものである。玉川教会の歩みも29年重ねてきたが、それは、すべて自然に整えられてきたものではない。そこにやはり神と共に戦ってきた歩みがある。神は、その試練と苦しみを経験させるために、わざわざ、課題を残されることがある。
イスラエルの民にとっては、戦って町を手に入れるよりは、先住の異教徒と妥協して平和裏に共存してしまうのは、楽なことであったはずである。しかし、その結果は、相手の神々を受け入れ、拝むことになり、いつしか自分たちの神を忘れ、信仰の遺産を捨て去ることになった(6節)。
神の民は世にある者であっても、世に妥協する者であってはならない。唯一まことの神を知り、その神の愛と聖さに生きる者であるならば、その光を輝かせなくてはならない。しかし、イスラエルの民は、その神の選びとその責任を忘れてしまい、やがて「主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えた」という(7節)。パウロは言う。「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2)イスラエルの民の課題は、私たちの課題である。この暗き世にあって、聖書の光を、自らの存在をもって証していく信仰的な戦いを意識できないならば、私たちの存在意義はない。そんな私たちに神は、試練を与え、戦いを教え、知らせようとされるのである。
2.士師たちの戦い(オテニエル、エフデ、シャムガル)
 12節、「そうすると」と訳されたのはヘブル語でワウ、つまり、単純に「また」を意味する接続詞あって、必ずしも、時間的な順序で、オテニエルが死んでからエフデの活躍があった、と理解する必要もない。実際オテニエルが戦ったクシャン・リシュアタイムは、北方のアラムの王であり、エフデが暗殺したエグロンは、南方のモアブの王である。
 さて20節、エフデは、王に語りかけた際に、当時のイスラエル人が使う神名ヤハウェではなく、その地域で広く使われていた一般的な神名エロヒームを使って、「神」から王に秘密の知らせがあるとした。エグロンが興味を持って、「今は言うな」とお付きのものを外に出させたのは、そのためである。エフデは実に巧妙な手を使ったのであり、ある種、騙し打ちをした。というのも、エグロンがイスラエルに侵入したのは、イスラエルがかつてヨルダン川を横断し、エリコを占領した時と同じ道を通ってのこととされている。つまり、エグロンはイスラエルを知りつくしており、正攻法をもってしては、戦えぬ相手であった。だからエフデは窮地の策を使ったのである。
しばしば戦いに綺麗な戦い方はなく、ある意味で泥まみれの戦いもある。だからこそ、私たちは戦うことを避けたく思ってしまうものだろう。しかし、聖書は、そんな戦い方を今の私たちに肯定しているわけではない。むしろ、パウロが、「規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」(2テモテ2:5)と語るように、私たちの戦い方の新しいイメージを伝えている。パウロは、私たちが競技者であること、労苦する農夫であること、そんなイメージをもって、私たちが戦い抜く者であることを勧めている。主にあってしっかり信仰の戦いを戦い抜き、主を証する者とさせていただこう。

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