士師記10章

士師記10章 エフタ登場
<要約>
おはようございます。愚かさのゆえに躓き、神を求める人間の繰り返し。何と言ったらよいものか。しかし、そんな人間にどこまでも付き合う神の姿が印象的です。私たちの苦しみにしのびなくなる神、これこそ、私たちの救いです。神の愛に頼らざるを得ない私たちの現実。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.士師トラ、ヤイル
士師トラ、ヤイルの活躍が記される。簡単な書き方である。トラはわずか5行、ヤイルは6行である。先のギデオンやアビメレクのようなエピソードもない。しかし、トラについていえば、「アビメレクの後」と記されているように、その活躍は劇的にイスラエルの混乱を鎮めるものであったと考えてよい。イスラエルは45年間平和を守られたのであるから、彼らは戦士ではなかったが、よき行政管理者としてその手腕を振るった。
2.忍びなくなる神
続く6節からは、勇士エフタの活躍を語っている。12章7節までがエフタの記事になり、10章は、エフタ登場までのエピソードである。士師記は、士師が登場するに至るイスラエルの背信がまず語られるのがパターンであるが、ここでは神ご自身がイスラエルと語られている。イスラエル人は、「主の目の前に重ねて悪を行い、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。それで彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、苦しめた。」(6-8節)とある。この苦境にあって、イスラエルは、悔い改めるのだが「あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。」(13節)と神に見捨てられるのである。だが、このエピソードが教えてくれるものは、イスラエルの悔い改めをご覧になって、「イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった」神のあわれみだろう。
その悔い改めは、あるいは、いつものことであり、また心変わりするものであったかもしれない。ただ、彼らは確かに「外国の神々を捨てて、主に立ち返る」(16a)のである。パウロは、悲しみと、悲しんで悔い改めることは違うとしている。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。」(2コリント7:10,11)とある。
後にイスラエルは平和な状況の中で、また逸脱してしまうかもしれない。しかし、その時、イスラエルは真剣に悔い改め、切実に助けを求めていた。神がその心の叫びを、聞き逃されなかったというのは、私たちにとっては救いではないだろうか。何度裏切られても、苦しみを見ると、忍びなくなる。実に神は甘いと言わざるをえない。しかし、この神の甘い愛があればこそ、私たちも滅びうせず守られるのである。神の愛に甘えざるを得ない、私たちのどうしようもない弱さ、愚かさがある。
だからもし、今自分が神の災いのもとにあると思うならば、神に向かって悔い改めの心を、行いをもって示したいものである。神のあわれみがある故に。私たちには、もう終わりということはない。必ず私たちには望みがある。神は愛である。神の哀れみによりすがって、今日の一日も歩ませていただこう。

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