マタイの福音書24章

24、25章は、第五の説教、いわゆる終末のさばきがテーマとなっている箇所である。しかしながら、裁きということからすれば、23章から繋がっているとも考えられるのであるが、明らかに聴衆は異なっている。やはりここは、24章で区別すべきところなのだろう。これは弟子たちのみに対する教えなのである。

さてこの24章は、単に70年のローマ帝国によってエルサレムが破壊されることを預言するのみならず、「あなたが来られ、世が終わる時」(3節)とあるように、終末を語る今の私たちにとても意味を持つ二重預言となっている。イエスは、単に、私たちに倫理的に生きることを教えているのではない。やがて人は神の前に立つ、その時を目指して、しっかり説明のできる人生を生きるように勧めている。

さてイエスはエルサレムへのさばきに重ねて終末に起こることの要点をいくつか述べている。第一に、終末にいたる前兆的な事柄がある(3節)。救世主の名を名のる偽キリストが現れること(5節)、戦争・内乱、政情不安定(6-7節)、自然災害(7節)、迫害(9節)、宗教的な惑わし(11節)、社会的な不正、冷酷(12節)そして全世界に福音宣教が宣べ伝えられることである(14節)。こうした前兆の後に、黙示録20章で語られているようなファイナルシーンがやってくる(20節)。つまり「この天地は滅び去ります」(35節)ということであるが、大切なのは、神によって創造され始まったこの時代も歴史も、神によって終焉を迎えることだ。神の主権があり、神がこの世界を興し、この世界を終わらせるのである。私たちの宣教の熱心さによって終末が早まるわけではないし、人間の愚かさによって自滅が早まるわけでもない。それは、神に定められた時に、起こることであり、誰も知る由もない。となればこそ、神のみこころに心を合わせる努力も必要なのである。

15-20節は、明らかに歴史家ヨセフォスも語るように、AD70年のローマ軍による神殿破壊の時に文字通り成就したと言える。教会史家のエウセビオスによれば、キリスト者は、このイエスのことばを覚えて、既にエルサレムから立ち去っていたが、ユダヤ教徒は、宮に立てこもり神殿諸共に滅ぼされたという。

そこで第二に、イエスはご自身の来臨について触れている。「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」(30節)。まるで劇画的なイメージで、実際に文字通りのことが起こるのだろうか、とすら思われる部分だろう。しかし言わんとしていることは、終末の締めくくりに、私たちは、イエスの主権を確かに認めることになることである。「悔い改めよ、神の国は近づいた」と語る、イエスのことばが確かにまことにそのとおりであったことを、皆が認めることになるのだ。

第三に、そのような終末の時は、「だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(36-38節)「だから、目をさましていなさい」(43節)と警告される。終末は近づいているが、その時は誰にもわからない。

だからといって終末をことさら怖がる必要もない。終末がいつであっても、目を覚まして、終末にふさわし生き方をしていればいいだけだからだ(44,45節)。用心していなさい、そしてふさわしい生き方をしなさい、という勧めの中で、「食事時にきちんと食事を与える」という非常に日常的な内容が語られている。終末を意識するからといって、特別な生き方をするわけではない。ごく日常の事柄を普通に生きていく。普段すべき常識的なことをきちんとしていくことをイエスは勧めている。

信仰生活は、「宗教的」に熱心であればよい、というのではない。普段の日常の生き方の中に信仰が生きているかどうかが問題である。日々の人間関係や生活における忠実さ、誠実さが大事なのである。信仰を持つというのは神がかり的に生きることではない。まさに人間としての成熟の道を生ることに他ならないのである。目を覚まし、神にお会いする備えをもって、いわゆる、日常性の中で悟りながら、神と人と自分との誠実さの中に歩ませていただくことが大切なのだ。

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