1サムエル記1章

サムエル記第一1章 ハンナの祈り
<要約>
おはようございます。今日からサムエル記に入ります。まずは小さな家庭の物語から始まるサムエル記、ハンナの祈りに教えられます。大切なのは、彼女の熱心な祈りが聞かれた、というにとどまらず、彼女が祈りに対する神のあわれみを認め、そのあわれみに積極的に応えようとしたところです。神の恵みに対する応答が、私たちの生活の中に豊かにされますように。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.士師記からサムエル記へ
 ヨシュアの死後、約200年にわたって、士師と呼ばれる、カリスマ的なリーダーによって、それぞれ12の部族が統治される時代が続いた。モーセ、ヨシュアの時代、一つにまとまっていたイスラエルは士師の時代には、ばらばらであった。しかし、イスラエルはいよいよ統一王国時代に入っていく。そのような意味で、ヘブル語の聖書の元々の配列からすれば士師記に1サムエル記が続くのであるが、キリスト教の聖書では、ユダヤ人の王として生まれた方、キリストの先祖であるダビデの由来を神学的に示す意図があるのか、ルツ記がこの二つの書に挿入される。ただ、士師記から1サムエル記という歴史的な連続性という一貫性は、大雑把なものであり、実際にはこの書は、いきなりある一家族の小さな物語から始まるのである。国や民族の存続ではない。一人の女性の存続の物語から始まっている。
2.サムエル記の始まり、小さな家族の物語
彼女が祈ることは、軍事的な助けではなく、身ごもることであり、自分の私的な恥が雪がれることである。4節、いけにえを献げた後に、受ける分をそれぞれに与えた、というのは、交わりのいけにえの分け前のことであろう。神との交わりの回復を祝うこのいけにえの分け前は、ペニンナは子どもの分も、しかしハンナは自分の分のみ受けたのであり、その分け前ではしゃぐ子どもの声は、ペニンナがあからさまに意地悪をせずとも、ハンナに孤独を思い知らせるに十分なものであった。ハンナを愛していたエルカナはそのようなハンナの孤独を思い、5節、特別の受ける分を与えていた、というわけである。だがそのような思いやりは、返ってハンナには一層惨めな思いにさせるだけであった。空気を読めないエルカナの余計な気遣いというべきか。ハンナは泣いて、食事もとろうとしなかった。そして立ち上がった。
3.ハンナの祈り
彼女は自分の惨めな状況を、神が知っておられると考え、神が自分の祈りに応えてくださると信じ、主の宮で、祈る時を持ったのである。当時、それはシロにあったとされる。ヨルダン川の西側、ベテルの北北東およそ14キロの、1926-29年、デンマークの発掘隊が調査した現在のセイルーンの遺跡がその場であろうと考えられているが、その証拠も痕跡も発見されてはいない。
ともあれ、彼女はそこで取り乱し、祭司のエリが側にいたことにすら気づかずに祈りに集中していた。彼女は、神の恵みにただひたすらすがらざるを得なかったのである。だから彼女は、子どもが生まれるなら、それは祈りの答えであることを認めること、そして、それが主の恵みであるならば、それに応えること、つまり与えられた子を神におささげする、ことを誓ったのである。彼女が、真剣にそう考えていたことは、その言葉通りにしたことで理解されるところである。
他方側にいたエリは、初めハンナの状況を誤解したが、事情を理解し、「安心して行きなさい」とハンナを励ましている。祈り終わったハンナの顔はもはや以前のようではなかった(1:18)。この日を境に、ハンナの心には変化が生じた。その置かれた状況は何も変わっていないのに、である。抱えている問題は、一向に片づいていないが、心は定まり安らかにされ、期待と喜びを持ってこの先を受け止めていく心境に導かれている。彼女は自分の祈りが神に聞き届けられたことを、祈りの結果が出る前に悟った。まさに信仰を持つことはそういうことである。ヘブルの著者も語っている。信仰は「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる」(へブル11:1)と。そして彼女は確実に、神の恵みに応えた。それは、次章で見る、神の恵みを放縦に変えたエリの二人の息子に対比される姿である。彼女と彼女の意思を継いだサムエルにこそ、神はイスラエルのリーダーシップを委ねていくのである。
4.ハンナの物語が教えること 
ルツの物語に続いて、ハンナの物語は、これまでのモーセやヨシュアの物語に比べれば、完全に小さな片隅のお話である。しかし、神はそのような下々のことをも心に留めてくださるお方であることをまず教えられる。となれば、私たちの思いを素直に語ることに、どうして躊躇うべきであろうか。「どうせ私など」という自分のいじけた気持ちをそのまま素直にさらけ出して、「こんな私ではあるが、主の助けが欲しい」と祈るべきだろう。神は、片隅の祈りにも耳を傾けておられる。
また、自分が苦しいところから逃れられることを祈るだけであるなら、ハンナの祈りを手本とするまでもない。ハンナは祈りの実を主にささげている。初めに誓願した通り、乳離れ(三歳頃)した子を、主の宮に仕える者となるよう、祭司エリの教育に委ねている。つまり、彼女の祈りは、自己実現に終わる類のものではなく、自分の祈りに対する神の答えを認め、神の恵みに応答していくものであった。
何事にも段階を踏んで一層深い技能を身につけるように、祈りにも日々進歩する道がある。まずは状況が変わらぬ中で主にあって心定まり、安らぐ経験を持つ。さらには、祈ったことへの神の大きなあわれみを認め、それに応答する、いわゆる献身する心を持つ、より成熟した祈り手とならせていただこう。

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