マタイの福音書27章

夜を徹した審判の後で、ユダヤ人は、イエスをローマ総督に引き渡した。最後の評決を下すためであった。死刑執行は、ローマ総督の命令によってのみ科すことができたからである。マタイはイエスの十字架に筆を進める前にユダの死について述べる。それは福音書の中ではマタイだけが記録し、直前に描かれたもう一人の裏切者、ペテロの運命と対比すれてもいる(26:69-75)。ペテロは、命に至る悔い改めの涙を流したが、ユダは絶望的な後悔によって自分の命を絶つほかなかった。しかしこれもまた、ゼカリヤ11章の預言の成就として描かれている(9節)。単なる表面的なことばの一致としてではなく、ゼカリヤ書9-13章に描かれた、拒絶された支配者の預言が苦難のメシヤに成就した、とマタイは語っているのである。つまり、ユダの行動のよしあしから学ぶのではなく、ユダの行動を通してイエスについての重要な真理を理解することが大事である。実際、ユダが投げ入れた銀貨で「畑」が買い取られたことに注目しよう。「陶器師の畑」は、奇妙な呼び名であるが、どうやら、陶器師のための土を取る場所であったらしい。それは「血の代価」で買い取られたものであるがゆえに、後にアケルダマ、「血の畑」とも呼ばれるようになった(使徒1:18-19)。しかし、それは、かつてエレミヤが、アナトテにある親族ハナメルの畑を買わされた、行動預言の成就であった(エレミヤ32:26-44)。つまり、それは、新しい契約の時代が来たことを確認するのみならず、この畑を継ぐ相続人が「外国人」とされたことで、新しい契約が、異邦人たちにも向けられ保証されたことを意味している。マタイは徹底して、イエスの道徳的な教えを渡航しているのではなく、神が恵みを持って実現してくださった福音の計画の進捗を描きあげているのである。

11節、イエスに対するローマ式の裁判が始まった。「あなたは、ユダヤ人の王ですか」は、ユダヤ人の指導者たちがピラトに提出した告発によるものなのであろう。イエスは「そのとおりです」と答えている。実際、イエスは群衆がそのようにご自身を迎えることを拒まなかった(21:1-9)。だが、異邦人の支配者ピラトが、皮肉的に尋ねる意図は、ユダヤ人の指導者たちが歪曲して訴える意図を理解していたからに他ならない。ピラトの妻のエピソードは、マタイ独自のもので、そこには異邦人の女性たちもまた、イエスの無罪性を理解していたことを伝えられている。ピラトは、イエスを釈放しようとした。だが、結果は、不本意なことに、バラバを釈放することになるのである。

27節からいよいよ、イエスの受難が記録される。実に痛ましい記事である。兵士たちは、全部隊を集めたという。それは誇張でもなく、イエスをユダヤ人の王とみなし、反ユダヤ的偏見に満ちた、めったにない楽しみにふける時とするためであった。「緋色の上着」は皇帝の紫色の礼服を、「葦」は王笏を、「いばらの冠」は王冠を表した。「ユダヤ人の王さま。ばんざい」は、「アヴェ・カエサル(皇帝万歳)」という正式の挨拶のパロディでもあったのだろう。すべては、嘲弄のためであった。イエスはすでに無制限の鞭打ちの苦しみを受け、今や、心の深みにまでその鞭を受けたのである。

マタイが記録する十字架上のイエスのことばは、たった一つ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」である。イエスは、すべての人々に捨てられた。ユダばかりではない、全ての弟子たちに裏切られた。さらに、神にすら御顔を背けられた。それが、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という叫びであった。しかし、マタイは、イザヤが語るように、徹底して苦難のしもべとして死なれたイエスを描き切ろうとしているだけである。百人隊長の「この方はまことに神の子であった」ということばは、イエスの十字架の意義を明らかにしようとするマタイの意図をよく表している。

イエスの十字架の死は、私たちのまことの罪の赦しのための死であったと受け止めていくところに、私たちをあらゆる罪の束縛から解放する力が生じる。罪人である私たちに注がれるべき神の怒りを一身に受け止められたイエスがおられる。そのイエスを覚えることで、罪から離れた新しい歩みをさせていただくこととしよう。

 

 

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