1列王記2章

2章 ソロモンの王位継承
<要約>
おはようございます。ソロモンの王国が確立していく様子が描かれています。しかし、それは、ソロモンの知恵ある行動ではなく、神の導きによる神の手によるものであることを私たちは教えられます。大切なのは、神を愛する者に、神は同じようにしてくださると信頼することでしょう。私たちの不足を補う、主の英知と助けがあることを覚えたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ダビデの終活
ダビデは言った。「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている」人は同じ道を辿っていく者である。あいつは自分より下、あるいは上などと見ようと、結局は皆、同じ道を辿っていく。「土のちりは、元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る」(伝道者の書12:7)とある通りに。死は、イエスが再臨され、迎えられる時が来るのでない限り、すべての人が通らねばならぬ宿命である。そこで、最終的に自分がただの平凡な人間で、神に造られた被造物に過ぎないと、弁え持つに至った上で、さらに、何を遺していくか、という部分なのだろう。死の訪れを感じつつ、ダビデは、子を励ましている。それは、ヤコブも、ヨセフも、同じことで、ダビデもまた子を呼び寄せ、知恵ある助言をした。そこにはアムノンやアブサロムに対する失敗を乗り越えて、ただ父としてあろうとするダビデの姿がある。彼は言う「強く、男らしくありなさい。」(1列王2:2)それは、どんな意味であったのだろうか、と考える。聖書に「男らしくある」と同じ言葉が使われるのは、1サムエル4:9のみである。そこでは、ペリシテ軍がイスラエルの蜂起に対して、「男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え」とある。つまり、この用法からすれば、男らしさというのは、危機状況にあって前に進む意志を持つことだろう。確かに、サムエル記は、常に前に進むダビデを描いている。どんなことが起ころうとも、人生にくじけそうになることがあっても、泰然自若とし、主にあって奮い立ち、前に進んでいく。実に、困難をものともせずに、終わってしまったことを忘れ、前に進んでいく意気込みこそ男らしさというべきものだ。
そのような意味で、ダビデは自分の人生を根拠に、子を励ましたと言える。つまりはったりではなかった、ということだ。ダビデは、主の掟と命令と定めとさとしを守り生きる、神との人生にその根拠を置いた。日々、目には見えないが、天地万物を支配する神の最善があることを信頼し、神のことばに一瞬一瞬拠り頼んで歩む積み重ねが、「男らしくあれ」と語らしめるのである。まさに「あなたの神、【主】への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩み、そこから励まされて」、前に進む日々が大事なのだ。私たちが物事に動ぜず、平穏の内にすべてを受け止め、前に進んで行くためには、神に深く結びついた日々を一瞬一瞬歩んでいくことだ。
2.実務的助言
さらにダビデは、実際的な行政に対する助言を与えた。これまで王座を脅かした人々、アドニヤ、ヨアブ、シムイについて知恵を持って対処することを教えたのである。しかしどのようなものだろう。敵対する者を排斥し、味方した者を厚遇する有り方は、キリスト者の人生にも適用されるものなのだろうか。いや、私たちは組織の中で動いていく時に、無意識にダビデと同じことをしていることがあり、ダビデもそう命じた、自分は聖書的なことをしているのだ、と思い込んでいることがあるのではないか。このような聖書に自分の思いを読み込む読み方が、本当に霊的適用として適切なことなのだろうか。血気盛んなパウロが、マルコを排斥し、後に、マルコを認めて、マルコとの再会を切望していることもそうだが、十字架愛の原則から考えると、そのような考え方はキリスト者として矛盾しているのである。世俗社会で一般的なことが、聖書の世界でも同じとは限らない。むしろここは、正義をないがしろにしてきたヨアブに対する裁きがあるべきこと、バルジライにしても、シムイにしても、交わされた約束は守られるべきことを語っていると取るべきだろう。そこがキリスト者の思考の原則なのである。
こうしてダビデは自分の先祖に加えられた。11節までが、ダビデの治世の記録である。
3.アドニヤの願い
さて12節からは、ソロモンの治世の記録となる。列王記の記者は、ソロモンがダビデに引き継いだ実務上の問題から書き起こす。つまりそれは一見敵対者を排除していることのようでありながら、神の正義の実現として読むべきものなのだろう。ダビデやソロモンの個人的な復讐として読むべきものではない。というのも、正義を実現する機会は、ソロモン自らではなく、神がもたらしていることに注意すべきである。
アドニヤが自ら先王ダビデの妻アビシャグを妻として求めることが機会となった。それは、謀反を起こすことと同じことを意味していた。だから、祭司エブヤタルの罷免は、ダビデに忠実に仕えた祭司として残念なことではあったが、アドニヤを支持したことからすれば、当然の報いを受けたことになる。事は連鎖した。将軍ヨアブも自ら反逆者となり、これまで無実な者の血を流したことへの裁きを受ける結果となった。最後に面従腹背のシムイに対し、ソロモンは策略的に知恵を用いて処罰したように見える。しかし実際にこの箇所を読み思い出すのは、マタイの福音書18:21-35に描かれたイエスのたとえ話、一万タラントの負債を免除してもらったにもかかわらず、人の負債を免除しなかった狭量な家来のたとえ話である。シムイの問題は、彼自らの狭量さにあった。彼自らが赦された者として生きていたのなら、こんな結末は迎えなかったことだろう。彼の人生とは別に、ソロモンの王国は確立したはずである。だがことは綺麗さっぱりと片付いて、ソロモンの王国は確立した、というわけである。
4.神の祝福による統治
大切なのは、全て、神の導きにより、物事が進んだということであろう(45節)。ソロモンは確かに知恵ある王であったが、ソロモンの知恵が実を結び、彼の王国が確立されたのは、主の祝福によるのである。実際、アドニヤが策略を尽くしても、王位は、主によってソロモンのものになった、と告白しているように。私たちの人間的な努力や策略がそのまま実を結ぶわけではない。ソロモンが画策しても、奴隷が逃げ出さなければシムイの処罰は実現しなかっただろう。物事を正しく導かれる神がいるのであって、神はある人を特別えこひいきして祝福されるわけではない。主の深い英知の中で物事が導かれ、確立されていくことを忘れてはならない。知恵も財力も皆、主からのものであり、それを用いる私たちが成功するのも、主がそのように導かれるからである。神を畏れ、謙虚に神の恵みを望み歩む者でありたい。

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